〈すれ違い〉
「今から会えない?」
彼女からのメッセージに気づいたのは、彼女が送ってから1時間も経過した時だった。
残業に追われてて、気づかなかった。
ストレスを溜め込みやすい彼女は、今回もきっと泣きながらメッセージを打ったに違いない。
彼女と付き合って3年と半年が経つ。
大学院2年生の時の進級パーティーで出会い、社会人になっても付き合い続けた。
ただ、院生活の時もそうだったが、やはり一般的なカップルとは違い、時間が取れず電話すらできないことが多かった。
大学院は大学とは違い研究指導者の下で研究を主に行い、より高度で専門的な内容を扱うため、最初の頃はついていくのに必死だった。
互いに社会人になってからは、彼女は精神科病院で公認心理師として働き、俺は企業での人事部門に入社した。
二人とも大学で心理学を専攻していて、俺はエスカレーター式で大学院に入学したが、彼女は外部からの受験だった。大学院での専攻は違うが、同じ心理学の中に存在する分野を扱ってるため、何となく相手の話は分かる。大学では一通り学んでいたから。
彼女は大学院時代からいつも言っていた。「自分のように悩みを抱える子どもの支援に携わりたい」と。どちらかというと彼女は臨床、現場での仕事に携わりたいと考えていて、俺は研究者の方が自分では向いてると思った。そもそも同じ心理学を専攻していたが、学ぶきっかけが違ったのだ。
彼女は辛い学校生活を支えてくれたカウンセラーに憧れを抱き、心理学を目指した。
一方で俺は、自分の知的好奇心を満たすために心理学を目指した。具体的に言えば、例えばAさんが恋人のBさんを殺したとする。BさんはAさんに別れを切り出したが、Aさんが中々首を縦に振らず、Bさんは数年に渡りAさんによるストーキング行為に悩まされた後、殺された。一般的な考えでは、「Aはなんて酷いことをするんだ!」や「Bさんがあまりにも可哀想」などその事件の背景について知りたがると思う。
ただ、俺はAさんやBさんの心理的な背景を知りたがっていた。
AさんがBさんを殺すと決めて、計画を立てている時はどのような感情だったのか?
そもそもAさんの認知の歪みはどこから来ているのか?
BさんはいつからAさんの歪みに気づいたのか。
そういう事ばかり考えていた。
そして、自分の疑問を晴らしてくれるのがたまたま心理学だったというわけだ。
方向性は違えど、共通点もあったし似ているところもあったのでこの3年半やってこれたと思う。
ただここ最近は少し、俺たちの関係性が変わってきているように感じる。もしかしたら、それは俺の思い違いだと良いが、彼女の仕事に対する姿勢が変わっているのは誰の目から見ても明らかだ。
「逆転移」という言葉を聞いたことがあるだろうか?
心理学を専攻している人や齧ったことのある人なら知っていると思うが、カウンセラーがクライエントに対して、特別な感情を抱くことを指す。例えばクライエントがクラスメイトからイジメを受けていることについて相談したら、カウンセラー自身がイジメを受けたことがあり、過度に同情してしまい、依存関係のようなことになりかねない。もしくは、カウンセラー自身が過去の辛いイジメの記憶が呼び起こされ、カウンセラーがクライエントになるケースだってある。
心理学とは人間の心を扱う学問であり、講義や実習で、クライエントとの距離感については厳しく言われてきた。しかし、カウンセラーも人間だ。逆転移が起こるのは自然な現象だが、それがクライエントにとって良くない影響を及ぼしたり、カウンセリングの意味を失くしてしまうようであれば、即座に別のカウンセラーに担当を渡す。しかし、大抵カウンセリングは密室で二人きりのことが多い。同僚や後輩の違和感に気づけるのか不安だ。特に彼女のように自分のような人を助けたいと思う人ほど逆転移が起こりやすいのではないかと俺は考える。
真面目で人一倍傷つきやすく、人との距離感を上手く保つのが難しい彼女は、言い方は悪いが、公認心理師を辞めるべきだと思う。彼女にとっても、彼女が担当しているクライエントにとってもそれが最善だと最近、思う。
ただ、それを言い出せる勇気もない。
10/19/2024, 12:51:07 PM