帰宅

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雨が降っていた。
傘は一本しかなくて、僕はそれを差し出した。

「いいの?」と君は言った。
その声は、少しだけ震えていた。

「いいよ。家、すぐそこだから」

嘘だった。駅まで十五分はある。でも、どうでもよかった。君の肩が濡れていくのを見るほうが、ずっと嫌だったから。

君は少し迷って、それから小さく「ありがとう」と言って傘を受け取った。
その一言で、なんだか全部報われた気がした。

 

翌日、僕は風邪をひいた。
当たり前だ。びしょ濡れで帰ったんだから。

ベッドの中でぼんやりしていると、スマホが震えた。

「昨日はありがとう。あのあと、ちゃんと帰れた?」

短いメッセージだった。
それだけなのに、熱のせいじゃない熱が胸に広がった。

「大丈夫。ちょっと風邪ひいただけ」

送ると、すぐに既読がついた。

「バカじゃん」

そう返ってきて、少しだけ笑った。

 

その日の夕方、インターホンが鳴った。

ドアを開けると、君が立っていた。昨日と同じ傘を持って、少し困った顔で。

「お見舞い。あと、これ返しにきた」

差し出されたのは、コンビニの袋と、あの傘。

「来なくてよかったのに」

そう言ったのに、君は首を振った。

「よくないよ。だって、それだけじゃ足りないから」

 

部屋に入って、君は勝手にお粥を温め始めた。
慣れてない手つきで、でも真剣に。

「優しさってさ」
ふいに君が言った。
「一回で終わりじゃないと思うんだよね」

僕はベッドの上で、ぼんやりそれを聞いていた。

「もらったら、返したくなるし。返したら、また何かしたくなるし」

君は少しだけ笑った。

「そうやって続いてくの、たぶん」

 

差し出されたお粥は、ちょっと味が薄かった。
でも、不思議なくらいあたたかかった。

 

優しさだけで、きっと。
世界は大きくは変わらない。

でも、目の前のひとりくらいなら。
こうして、少しだけ救えるのかもしれない。

 

外ではまだ、雨が降っていた。
でももう、寒くはなかった。

5/3/2026, 4:54:51 AM