ぬるま

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「海の底って、きっと優しいよね」
「そうだといいな」
「鯨の骨とか見たいな。すごくおっきいの」
「あったらな」

「ね、一緒に見に行かない?」

隣のヤツが突然ドライブに誘ったかと思えば、急にそんな話を振った。本当に突発だったが話を聞く分には面白そうなので、車を出した。

「うん、そこで止まって」

水族館か博物館に行って古びた骨の展示を見るかと思えば、ヤツは少し遠くの、海が見える展望台を所望した。
潮風で錆びついた手すりに趣きがある。
シーズンが過ぎ、人の影も見えない。
当たり前だ。
海を堪能するには寒すぎた。

「寒いね」
「嗚呼」

風が強い。
音も物凄い。
しかしヤツの声はよく聞こえた。


「…ここで心中しようだなんて、駄目かな」

海風が皮膚を刺す。
夏はもう終わるらしい。
やけに長く伸びた影を見て地軸が23.4℃傾いていることを思い知った。

「………………駄目だろ」
「えー」
「駄目だ」
「ほんと?」
「なんだって、急に…」

「え、疲れちゃった?から、」

だから、と言葉少なになって俯く。
ヤツが俺を誘う時は大体なにかに追い詰められているときだ。
表情もぎこちない上、視線が虚ろになる。

「…なにに」
「なんだろ、わかんない、もうなんか全部。全部やんなっちゃった」

たくさんの人に心を砕いて接するからその分精神的負担が大きいらしい。らしい、というのは本人から直接聞いたことがないからだ。このように具体的に発露されることはこれまでに無かった。

「……………」
「…鯨はね、死んだら海の底に沈んでって、みんなに食べられるんだって。私は海の底まで沈んでって、鯨の肋骨の間に引っかかって、鯨みたいにみんなに食べられて、役に立つの」
「………馬鹿か、おまえ」
「うん、そうなりたい…」
「…………」
「ね、いいでしょ。一緒に行かない?」
「………………………何故、俺が」
「君、言うこと断らないでしょ。だから、私のこと好きなのかなって。今まで迷惑かけちゃってたりしてたから、最後くらいなんかあげなきゃなって」
「は」
「だって、どうせ死ぬならあげてもいいかなって、そのくらいには好ましく思ってるんだよ、君のこと。」
「…それで心中か」
「うん」

それで。
それで、俺と心中しようと言うのか。
全て知った上で。利用して。

「今、この海の底に、鯨がいるのかも分からんぞ」

それほどなら、とヤツが必死になっている鯨について言ってやった。つい、カッとなった。

「あ。」

ヤツは弾かれたように伏せていた顔を上げた。
あどけない声だった。
赤ペンでバツをつけられた子供のようだった。
それが酷く恐ろしかった。

「そっか、」
「そうだった、」
「分かんないんだ、」
「忘れてた、」

噛み締めるように呟いて、がらんどうの瞳をゆっくりとこちらに向けた。

「………………………帰ろ。」
「……嗚呼、」

これ程まで、人が海底に無知で良かったと思う日は無かった。
海底の暗闇まで人類が把握していたら、コイツはクジラのいる海底に喜んで沈んでいく。そんな予感がした。

海の底なんて、岩と漂流物だらけで、高い水圧で細胞が圧縮される。そうしてできた死体など酷いものだ。
海の底は、肺呼吸するしか脳のない人類に優しくなどない。

それを伝えたってヤツは執着するのだろう。
それで、俺に行きずりの旅を持ちかけるのだろう。

「馬鹿だ、本当に…」

運転席の窓を少し開けた。
風は生ぬるかった。
陸風だった。
いつの間にか凪の刻が終わり、陸から海へと穏やかな風が吹いていた。夜だ。憎たらしいくらいに空は晴れ渡っており、星がよく見えた。

「はぁ、」

旅を持ちかけたら、どうしよう。
なんせ、俺は断れない。

「…海底探査の完遂は、100年後にしてもらうかな」

それまでに、ヤツも、俺も、海の底へ行く前にくたばっているはずだ。

助手席ではヤツが寝息を立てている。
それを起こさないように、速度を緩やかに落とした。





2024 1/20(土) 2 「海の底」

1/20/2024, 2:10:37 PM