077【始まりはいつも】2022.10.20
日の出直前の大地のしじまに耳を澄ませること。帝国の守護の要、大魔法使いアレクシアの一日の始まりはいつも、そこからである。
一日の陰と陽が入れ替わる瞬間は日の出と日の入、朝夕二回あるが、アレクシアが遠耳の術を使うのは、必ず朝である。というのも、この時間帯は、夜に目覚める生き物が眠りはじめ、昼間に活動する生き物もまだ微睡んでいるから、遠耳を邪魔する雑音がすくないのである。ゆえに、アレクシアが耳を地べたに押し当てるだけで、はるか海の彼方の遠国の気配すら察することができるという。
アレクシアにとっていまでも忘れられないのは、十余年前の払暁、大地が異様な振動に満ちていたことである。ただちに万国の歴史書に当たり、それは竜のたてる振動であると知った。はたして、その翌日、首都を竜の群れが襲った。遠耳によって予見できていたからこそ、竜に対して確実な対処はできた。だが、それでも、首都のシンボルであった物見の塔は、真ん中からぽきりと折られた。
爾来、塔の崩落を目の当たりにしたときのような、胸の潰れる思いは二度としたくない、それだけを念じながら、毎朝、アレクシアは大地のつぶやきに耳を澄ませているのである。
さいわいなことに、今暁も、大地に異音はしなかった。アレクシアはほっと胸をなでおろしながら地面から耳を離した。帝国の民草は、今日もまる一日を大過なくすごせそうだ、と確認ができてはじめて、アレクシアはいつも、手足の先まで血が通いはじめる思いがする。
サーガの語り手には申し訳ないが、帝国の守護の要たる大魔法使い、アレクシア・マスキルノ・デヴァルーにとって、いちばんの喜びは、後の世までの語り種になるような著しい出来事もなく、日々、平々凡々に過ぎていくことである。
若いころは、サーガの主役になってみたいと夢見たこともあったが、この年齢となっては、ふるふる御免である。なにもないのがいちばんいい。いま、アレクシアがもっともなりたいものは、無名の、歴史のなかで忘れ去られるような、ごくふつうの、そして、できるだけ怠け者で役立たずの大魔法使い、にほかならないのであった。
10/20/2022, 1:36:45 PM