moti。

Open App

声が枯れるまで

8月。猛暑の中、鬱陶しい蝉の鳴き声で目を覚ます。
気だるい体を前に持ち上げながら、枕元にあるデジタル時計に視線をやる。もうとっくに午後の1時を過ぎていた。
薄暗くせまい部屋。私の体はまるで水をかぶったように汗でいっぱいになっていた。日々のストレス故二度寝したいところだが、このままエアコンとやらが見当たらない天井を見つめているままではこのまま日が暮れるので、いつもの数倍は重い自分の体を無理やりベッドから削ぎ落とす。
物が散乱している床をグシャグシャという音を立てながら歩く。いつ食べたのかも分からないカップ麺の容器が私の足の裏の力によって割れると同時に、残っていたであろう醤油味の汁が足にまとわりつく。若干の汚さを感じつつも、無駄に装飾がされたぴんくの壁に擦りつけた。
ようやっとテーブルにつき、テレビと連動している汚れたリモコンを手に持ち、チャンネルを移動させる。
バラエティやグルメ、お笑いなどがあったが、一ミリたりとも興味が沸かず、ほんの一秒も経たないまま数字を変えていく。チャンネルが4になったところで、私はボタンを押す手を止めた。画面に映るのはひとりの少年。名前は岡崎恵というらしい。見た目はどちらかというと男らしい顔つきをしているのに対して、名前は中性的で可愛らしい。このことが印象的に残り、普段はなかなか覚えられない名前でも、『岡崎恵』という3文字はくっきりと頭に記憶されていた。それからというものの、この薄暗い部屋の中で、たった一つだけ明るく光っている場所には、いつも岡崎恵という名の者に釘付けになる私の姿があった。回数を重ねるごとに、私は次第に彼の虜になっていった。これが世間で言う『推し』というものなのだろうか。どうやら、私が彼に抱いている感情は普通ではないようだ。他の女性タレントと話しているとなんだか気分が落ち着かなくなり、彼に私を見てほしいと考えるようになっていった。
『独占欲』とでもいうのだろうか。
昔から親に勉強を強制され、常に好成績を押し付けられていた私にとって、今まで感じたことがない感情でも、それがなにか理解できるのは容易なことだった。
彼への気持ちは、日を重ねるごとに大きくなり、いままでこんなものに大量のお金を払うなんて馬鹿らしいと思っていたグッズとやらにも手を出して、五月蝿いだけの雑音祭りだと思っていたライブというもののチケットも買った。
どれも私が感じたことのない感情を引き出し、また新しく彼に対してのおもいは膨れ上がっていった。
彼は歌がとても上手で、毎日彼の歌声を聞いて睡眠を取るほど、心地いい歌声をしていた。
誰にでも隔てなく接する態度も、私の『好き』を膨らませる原因だった。
私は、彼のことが好きになってしまった。私は彼から、一度向けた目を離せなくなってしまった。
もう、引き返せないほど。
当たったライブのチケットを握りしめ、彼がいるところへと向かった。チケットに書いてある番号と一致する席に座り、ステージから彼が上がってくるのをまつ。
やっと裏から出てきた彼は、清々しいほどいい笑顔をして、「みんな、来てくれてありがとう」と言う。
遠くで歌い、踊る君を見て、また『好き』だと感じた。
どうせ私のことなんて知らないだろうし、私の名前も、私の好きなものも、なにも知らないんだろうけど
貴方は私のなかった感情というものを引き出してくれた。
初めて、人を『好き』だと思えたから
だから
声が枯れるまで、貴方に『好き』だと叫ぶから。
だから
貴方がおじいちゃんになって、声が枯れるまでには絶対、
「俺も好きだよ」
って言ってもらうよう頑張るからね
今度こそちゃんと、『好き』を見つけられたから。

10/21/2024, 10:57:43 AM