優しさだけで、きっと
——アルゴスの庭 外伝——
『寛容な蛙』
一
管理区画C−7の廊下は、いつも同じ匂いがした。
消毒液と、それを隠そうとする安価な芳香剤と、その下に染みついた——何年かけても消えない——人間の体温の名残り。
蒔田(まきた)ユイは歩きながら、自分の靴音を数えた。八歩、九歩、十歩。今日で千三百四十二日目。入庁してから一度も遅刻したことがない。それが彼女の唯一の誇りだった。
適合番号を持つ市民の行動記録を管理する「適合監視官」という職は、地味だが精緻な仕事だ。逸脱を検知し、報告し、記録する。感情を挟む余地はない。システムが正しく動いていれば、それでいい。
ユイはそう信じていた。
少なくとも——今朝、収容区画Bの扉を開けるまでは。
部屋の中に、女がいた。
椅子に座り、膝の上に折り畳んだ布を置き、窓もない壁をただ見ている。適合番号のない者——「不適合者」として拘置された者たちの区画だ。名前はファイルで確認済みだった。
朝倉(あさくら)ミドリ。三十一歳。元教育施設勤務。番号発行審査において「社会適合指数・基準以下」と判定。再審査待ち、九十七日。
統計的には珍しくない。ユイは淡々と端末に記録を打ち込み始めた。
ところが。
「それ、冷めないうちに飲んでください」
女が振り向かずに言った。
ユイの手が止まった。
床の隅に、湯気の立つ紙コップがあった。どこから持ち込んだのか——施設のカフェテリアのものと同じ色。
「……あなたが用意したのですか」
「昨日の監視官の方が、うっかり置いていったみたいで。私は飲めないので」
ユイは紙コップを見た。規定では、監視中の飲食は禁止されている。
それでも、なぜか——手が伸びた。
二
それが始まりだった。
翌日からユイはB区画への巡回を自ら志願した。理由は報告書に「対象者の情動安定化観察のため」と書いた。嘘ではない。ただ——全部ではなかった。
ミドリはいつも何かを折っていた。紙を。施設で配布される記録用紙の裏面を丁寧に四つ折りにして、鶴を折る。蛙を折る。見たことのない形を折る。
「何のために折るんですか」ユイは三日目に訊いた。
「数えるんです」とミドリは答えた。「ここに来た日から、一日一枚。今日で九十九枚目です」
九十七日の再審査待ちが、なぜ九十九枚——ユイが顔をしかめると、ミドリは小さく笑った。
「連れてこられた日と、翌朝と——最初の二日だけ一日二枚折ったんです。怖くて。手を動かしていないと、眠れなかったから。それ以来ずっとずれてるんですけど、直せなくて。直す気にも、なれなくて」
ユイはその答えを、二時間後の昼休みにまだ考えていた。
ミドリは元・児童教育施設の「語り部補助員」だった。子供たちに昔話を読み聞かせる仕事。適合社会が「効率に寄与しない感情的刺激」として縮小させた職域のひとつだ。
「おかしいと思いませんか」ある日、ミドリは壁を見ながら言った。「物語って、役に立たないから価値があるんじゃないですか。役に立つ物語は、もう物語じゃない気がして」
ユイは答えなかった。答えられなかった。
彼女の脳裏に、子供の頃読んだ絵本の表紙が、ぼんやりと浮かんだ。もう内容は覚えていない。ただ、赤い表紙だったことだけを覚えている。
三
百三十日目——再審査の結果通知が来た日——ユイはいつもより早く扉を開けた。
ミドリは座っていた。手に、折り紙ではなく、一枚の白い封書を持っていた。
「不適合、継続です」
声は静かだった。揺れてもいなかった。ただ指先だけが、封書をゆっくりと折り畳んでいた——無意識に。
ユイは規定を知っていた。継続判定の場合、対象者は移送先の長期管理施設へ七日以内に転居する。監視官が「不当な情緒的接触」を持った記録があれば、懲戒処分の対象になる。
知っていた。
それでも足が動いた。
椅子の隣に——しゃがんだ。
「折り方、教えてもらえますか」
ミドリが顔を上げた。赤くなっていない目が、ユイをまっすぐ見た。
「……何を、折りますか」
「数えやすいもの」
しばらくの沈黙。
それからミドリは——笑った。
泣き笑いでも、乾いた笑いでもない。ただ、温かい笑いだった。
「蛙がいいです。途中で間違えても、またやり直せるから」
ミドリが手を動かし始めた。ユイも、ぎこちなく紙を持った。
「まず半分に、ですか」
「そうです。角を合わせなくていいです。ぴったりじゃなくていい」
折り目をつける音が二つ、静かに重なった。
「子供に教えるときも、こうやって?」ユイは訊いた。手を動かしながら。
「もっと大雑把に教えてました。子供は合わせようとしすぎるから、先にわざと曲げて見せて——これでも蛙になる、って」
「なりますか、こんな形でも」
「なります。蛙は寛容なんです」
ユイは少し考えた。「システムより、寛容ですね」
ミドリが手を止めた。それから、また動かした。
「……監視官さんが、そんなこと言っていいんですか」
「記録端末、閉じてます」
今度こそミドリは笑った。声を立てて。施設に来てから初めての笑い声を、ユイは後から思い出すことになる。
蛙ができあがった。ユイのは不格好で、ミドリのは小さくて、二つ並べると、どこか似ていた。
廊下の照明が一定周期で点滅している。記録端末はずっと閉じたままだった。
四
移送の朝。
ユイはB区画の扉の前に立った。任務外だった。有給を使った。
ミドリは荷物を持っていた——持てる荷物が少ないのは規定通りだ。ただ、左手には紙袋があった。
「これ」とミドリは言って、袋を差し出した。
中には、折り紙が百三十一枚。それから——一枚、余分に折られた蛙が、一番上に乗っていた。
「最後の日の分と、あなたの分と」
ユイは受け取った。規定違反だとわかっていた。
「また会えますか」と訊いた自分の声が、思ったより低くて驚いた。
ミドリは少し考えてから、言った。
「物語の中では、会えることになってますよ、きっと」
扉が閉まった。
廊下はいつもの匂いがした。
ユイは袋を抱えて、靴音を数え始めた。一歩、二歩、三歩。
いつもと違ったのは——途中で数えるのをやめたことだ。
蛙の折り紙が一枚、指の間で形を変えていた。不格好で、でも確かに、自分の手が折ったもの。
エピローグ
翌月、管理局の内部システムに、ある不整合が記録された。
C−7区画担当・蒔田ユイの行動ログの一部が、一時間分だけ欠損していた。
システムはそれを「軽微な記録誤差」として自動処理した。
人間の優しさを、アルゴスはまだ、数字に変換できずにいる。
了
5/2/2026, 3:40:22 PM