Seaside cafe with cloudy sky

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【些細なことでも】

◀◀【香水】からの続きです◀◀

「乾杯の言葉、あなたからぜひ。お願いできますか、アラン」
「名誉なことだね。喜んで」
謹んで受けるとアランはワイングラスをもう一段高く掲げた。乾杯は互いの目を見つめ合って行うべし。目の前のひよこ頭の水色の瞳をしっかり見捉え、祈るように告げた。
「気の毒なマルテッロの、一日も早い回復を願って」
するとエルンストの目元がかすかな朱を帯びた。今まで明るく接してくれてはいたが、倒れた彼のために体を張ってまで助けを求めたほどなのだ、実のところはかなり心配だったのだろう……エルンストの言外での反応に心中で同情しながら、さあ次は君だよとアランが水を向けた。
「 ―― はい……ありがとうございますアラン、彼に代わって感謝します。では僕は……僕もチーフの、威勢の良いがなり声が早く現場に復帰することを願って。それと……」言葉をいったん途切らせ、エルンストも向かいのアランの目を見つめる。眼鏡とそれに掛かる鳥の巣な前髪が邪魔をしてよく見えないけれど、美しいアルドワーズの色をした魅力的な双眸が垣間見える。それを捕らえながらあとの言葉を控えめに続けた。「 ―― 僕たちの再会も祝して」
「―― そうだね、不思議な再会に乾杯」
アランがすかさず同意し、ふわりと笑って付け加える。そして乾杯、二人はグラスに口をつけ一口だけ嗜んだあと、お互いのことを話題に語り合って前菜をつまんでいった。

「 ―― そんなに立て込んでいたんだ。だから熟練工でチーフのマルテッロがあんなことに……大変だったんだね」
「ええ……客先の無茶な短納期要請で地獄のような製造工程スケジュールでしたが、今日という期日に全品納品達成することができたんです。チーフを筆頭に、その他何人もが休日返上で本当に頑張ってくれました。ようやく休ませてあげられる……そんな記念すべき日に、あなたも大いに貢献してくださったんですよ」
フォルマッジオの盛り合わせにトマトとアボカド、海老のマヨネーズビネガー和えはマスタードが隠し味だ。そしてジェノベーゼソースの上に小さな角切りベイクドポテトを乗せたブルスケッタ。エルンストが予言したとおりに、すべてが心奪われる味であった。幸せのため息をこぼしながら二人の語らいは続く。
「はは、そうとは知らず、微力ながらお手伝いができて良かったよ。この名に恥じない極上のスペシャルランチは、今日、特に尽力した君自身へのご褒美でもあったのかな?幸運にもそのご相伴にあずかった僕は今、最高の気分に浸っているよ」
ふたたびワインを口にしたアランの能弁にエルンストは最後のブルスケッタを頬張りつつ目を見開いて瞬く。
「 ――自分へのご褒美……それは思いつきませんでした、ただあなたになにかお礼をしたかっただけで……」なんとか口実をもうけて、少しでもお近づきになりたかったから……との本心は伏せておく。
「でもそうですね、僕もチーフに次ぐ連日のオーバーワークでしたから。これぐらいの羽目外しは、チーフも許してくれますよね」
肩をすくめて無邪気に笑ってみせるエルンストをアランは微笑み返しながらも、オーバーワークという言葉に引っ掛かり、密かに彼の様子を覗った。―― あの時もしやと思ったけれど、やっぱり彼も若干過労状態にあるようだ。若い分、年配のマルテッロよりはまだ深刻な状態にはないのだろうけど……
「どうかしましたか、アラン?」
静かに自分を見据えるアランにきょとんとしてエルンストが訊いてきた。ああ、いや……と彼らしくない下手な言葉濁しで言い繕い、どこか虚ろなアランの態度にエルンストが首を傾げていたところへ、強烈に食欲をそそる香ばしい匂いと音が二人のテーブルへと近づいてきた。
「お待たせ、メインディッシュのお届けよ。ああ、きれいに食べてくれたのね」
見ればエルンストの伯母さんがジュージュー唸る鉄板大皿を掲げ持って来た。エルンストが不要になった皿を片付けてテーブルの中央を空け、そこへ厳かにメインディッシュが降臨する。目の前に現れたのは、切り分けられた妖しくもなまめかしい肉色をさらけ出す堂々たるビステッカ。アランもエルンストも言葉なく目を見張った。
「お腹を空かせた男どもには、こういった料理がどストライクでしょ?」
伯母さんが二人を交互に見て楽しげに訊く。意表を突かれた豪勢なメインディッシュ、思わず前髪を掻き上げてアランは伯母さんを見上げ、最上級の敬意を表した。
「 ―― ブラヴィッシマ……!この言葉しかありません。最高のおもてなしに最大限の感謝を。もしよろしければあなたのお手にキスしたいのですが」
「まああああああ、もちろん、喜んで!」
髪に隠されていたアランのイケメン素顔を間近で見、さらにはキスも乞われるという胸ときめくハプニング。彼女は一も二もなく承諾した。立ち上がったアランが彼女の手を取り恭しく甲へ口付けするさまを端で眺めていて、エルンストはなぜだか無性に面白くなかった。あからさまな態度には出さぬよう努めていたつもりだったが、伯母はそんなむくれ気味の甥に気付いたらしく、耳もとへ近寄って「ごめんね、エル。でもあんたからアランを奪ったりしないから安心して」と小声でおどけがちに言われたとき、エルンストは真っ赤になってしまった。だから、彼は、想い人じゃあないんだって……心の中でまた彼女に否定してはみたけれど ――
―― 想い人じゃない。そのはずだけど……じゃあなぜ、よくある社交儀礼のあんな些細なことでも、アランが伯母さんにしたのを目にしただけで、こんなにも不愉快な気分になってしまったんだろう ―― ?
これまで味わったことのない奇妙な感情に困惑し、いつの間にか伯母さんが姿を消したのにも気付かずにエルンストは茫然としていた。

▶▶またどこかのお題へ続く予定です▶▶

9/3/2024, 11:22:26 AM