理想郷
英知の光を放つイルカのために、海を創ろう。サンゴ礁の草原、夕暮れの赤の地平線、生命が凍える冬の深海。天上の舞で悠久の波間を泳いでいく。
生々流転を歩む鹿のために、山を創ろう。峰々連なるその姿、龍が天に昇るがごとく雄大なり。雲海から時折見せる峻険な岩壁を、恐れもせず走り渡る。龍の背を走るが如き鹿の躍動。まさに生命の疾走。
美しい叙情詩のために、四季を創ろう。若葉の芽吹き。天高く積み重なる入道雲。黄金色の水田。純白の世界。四季の移ろいが魂の奥深くに火を灯し、内なる宇宙を探索する。
平和のために、法を創ろう。正義と平等の道しるべ。社会の礎。歴史と文明の結晶。強者の横暴から弱者を保護し、今日と明日を繋ぐ歯車。厳密さと緻密さを昇華させた美しき方程式。
コンコンコン、誰かが扉を叩く。
どうぞ。
失礼します。
やあ、天使くん、こんな時間までお疲れさま。どうしたの?
大変ですよ。大事なことを忘れてました。
なに?
人間ですよ。神さま、理想郷に人間を入れるのを忘れてませんか。
……あっ。
あっ、じゃあないですよ。どうするんですか。
うーん。もういいんじゃない。入れなくても。
な、なんてことをいうんですか。
だってさ、せっかく『法』っていうのを創ってあげたのに、あいつらケンカばっかりしてるしさ。こっちのいうこと聞かないし。本当は、人間がいない世界が理想郷なんじゃないの?
……それ、絶対に外で言っちゃいけませんからね。とても神さまの言う台詞じゃないですから。
そうかも知れないけどさ。……じゃあいっそのこと、人間の思考を変えちゃおうか。
どんなふうに?
もう何も考えなくする。
やめてください。怖いですから。そんなことしたら、悪いことは考えなくなるけど、楽しいことも考えなくなっちゃうじゃないですか。そんなの理想郷じゃないですよ。
うーん。もう面倒くさい。ああもう面倒くさいな。……やめた。もうやめた。理想郷、無理。この世は地獄です。
駄目です、そんな簡単に諦めないで下さい。何のために、僕たちが毎日サービス残業で理想郷作りをやってきたと思ってるんですか。ちゃんとしてくださいよ。
うーん。じゃあ、ちょっとだけいい?
何がですか?
人間の思考、変えるの、ちょっとだけ。
どんなふうに?
それはね、ゴニョゴニョゴニョ。
うーん、まあそれくらいなら。
よし、じゃあそういうことでよろしくね。わたしはもう帰るから。
あ、え、ああ。ったく、逃げ足だけは速いんだから。しょうがない、さっさと書類作って僕も帰ろう。
さてさて、
『人間同士はいつも、出会ったら真心を込めて挨拶する』
これをメールしてっと。これでよし。施工は来週からだな。これで理想郷ができればいいけどなあ。
10/31/2024, 10:45:50 PM