時雨

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 私は今、病室にいる。1人ではない、いや、もうすぐでそこにいるのは1人だけになるのだろう。虫の息とはこの事かと、そう思わせるようにか細く生きている老人といる。老人は起きている、まるで蝋燭の火のような瞳をこちらに向けて、少しでも生きようと戦っている。
 
 この戦いには勝ちはない。否、1秒1秒毎の戦いには勝てる。しかしいずれ負けてしまう。老人はまだ勝ち続けている。90年に及ぶ長い連勝の記録も、もうすぐ途絶えるだろう。病室に響く電子音が弱々しくなっているように思う。私はこの老人に戦え!と鼓舞することも、助太刀に入ることも出来ずに、さながら審判のように老人の動向、いや瞳孔を見張っている。

 この老人は勝ち続けた。90年と249日12時間56分50秒。
試合終了のホイッスルのように乾いた電子音が1人になった病室を微かに揺らした。老人の瞳は安らかだった気がする。この老人は負けた。だが、最後の最期まで戦い抜いた、戦士の瞳であった。

3/14/2026, 2:53:22 PM