「嗚呼、なんて美しいのだろう。君を愛してる。一緒にいてほしい」
出会ってからわずか数秒後。そんな言葉とともに手を握られた。
「なんて美しいのだろう。君の名前はなんというのだろうか」
「ゆき、と申しますが」
「ゆき……なんて儚い名前なんだ」
ゆきさん、ととろけた声で彼は私の名を呼ぶ。
「ぼくのそばにいてはくれないか」
顔のない男は、そう言って私の手を強く握った。
その男を、私は「のっぺらぼうさん」と呼んだ。
のっぺらぼうさんはある病にかかって、あと十日も生きられないのだと言う。
「残り少ない人生なんだ。せっかくなら自分が好いた人と過ごしたいじゃないか」
どうやら私は、この人の最期に付き合わされるらしい。
のっぺらぼうさんは、私に何もする必要はない、と言った。そばにいてくれるだけでいい、と。
それならば、と熱意に押されて承諾したものの、連れて行かれたのはネズミの這い回るボロ小屋で、食事と出されたのはカエルの干物ときたものだからめまいがした。
とんだ男のとんだ道楽に巻き込まれてしまったものだ。
とはいえ、十日はここで過ごさなくてはならない。
ただ黙って愛でられるのは性に合わないので、一日のほとんどを寝て過ごすのっぺらぼうさんの代わりに家事をすることにした。
のっぺらぼうさんと私の会話は、質問とそれに対する答えの繰り返しがほとんどだった。
私が問い、のっぺらぼうさんが答える。のっぺらぼうさんが問い、私が答えることはなかった。
「どうして私を美しいと言うのでしょうか。あなたには目がありません」
「目が無くたってわかるよ。君は美しい」
「見えないのに?」
「いいや見えるよ。ぼくの心には見えている」
「心に目はついていません」
「ついてなくても見えるんだよ。君は美しい。気高くて、きよらかだ」
「意味がわかりません。病で朦朧としているだけではないのですか」
「言ったろう。ぼくの病は死ぬ直前まで何ともないんだよ。ある日突然、ぽっくり逝ってしまうのだよ」
「だからあの日、あんな雪の日に外をほっつき歩いていたのですか?」
「そうさ、元気だもの。雪は好きなんだ」
「どこがいいのですか、あんなもの」
「美しいじゃないか。君のように」
「だから私のどこが美しいというのですか」
そんな問答の繰り返しだった。
のっぺらぼうさんは掴みどころの無い人だったが、どうやら私に心底惚れ込んでいるらしかった。
「目が見えたら、きっとあなたは私を嫌いになるでしょうね」
「そんな日が来るとは思えないね。こんなに君を愛しているのに」
──嘘つき。
そうでしたね、と言いながら、心の中で彼をなじった。
みんなそうだ。私が素顔を見せた瞬間、叫び声を上げて逃げていく。
愛をささやいたその口で、ばけものと呼ばれた。ほおをなでたその手で、物を投げつけられた。
のっぺらぼうさんも、きっとそうだ。
でも、目の見えない彼のそばにいるのは不思議と居心地がよかった。
見えないくせに美しいだの可憐だのとのたまう姿は滑稽ですらあったが、悪い気分はしなかった。
彼の前だと、普通の人間になれたような気がした。
そう思い始めてから、お別れまで、そう時間はかからなかった。
「今日が十日目ですが」
「そうだね。僕は今日死んでしまうね」
「どうしてそんなに嬉しそうな顔をしているのです」
「最期まで君と一緒にいられるのが嬉しいのさ。ゆきさん、今までありがとう。そばにいてくれて」
「……どうして私だったのですか」
「うん?」
「どうして……目も見えなくて、鼻も無くて、私の情報なんて声くらいしかないのに、私を……好いてくれたのですか」
「美しいから」
「ふざけないでください。私は美しくなんてありません」
「いいや美しいよ」
布団に寝転がった彼は、まっすぐに私を見つめた。
「ぼくには君が見えているよ」
「嘘つき。あなたには見えていないでしょう。目が無いんだから。もう嘘はやめてください」
「嘘じゃない。本当に美しいと思ったんだ。目がなくてもわかる。ぼくには君が見える」
はじめて会った時、君は挨拶してくれたろう、と彼は私に語りかけた。
「今まで、ぼくに話しかけてくれる人なんていなかった。みんな避けていくんだ。辛かったよ。でも君はぼくに話しかけてくれた。こんな顔、たいそう怖かったろうに……」
ちがう。あのときあなたに話しかけたのは。
「なんて美しい心の持ち主なんだろうって思った。清らかで澄み切っていて」
自分と同じ、嫌われものがいるのが嬉しかっただけ。
「ぼくなんかに挨拶してくれたのが、本当に嬉しかったんだ」
私はそんな。
「そんな優しい君が好きなんだ。この世の誰よりも君のことを愛しているよ」
あなたが思うようなひとじゃない。
「だから」
愛される資格なんてない。
「もう泣かないで。ぼくの最愛の人」
ぼろぼろと涙がほおをつたい、真一文字に裂けた皮膚を濡らした。
その上を、のっぺらぼうさんの指がそっと滑っていく。
涙をすくいとり、私のほおを優しくなでる。
「ゆきさん、言ったろう。ぼくには君が見えるって」
君がどんな姿をしていても、君の美しさは変わらないよ、とこれ以上ないくらい優しい声で、のっぺらぼうさんはささやいた。
「たとえ口が裂けていても、目が潰れていても、鼻が削がれていても、君は美しい。心の美しさは、誰にも消せない」
嗚呼、なんて美しいのだろう。
「君を愛してるよ」
それっきり、のっぺらぼうさんは動かなかった。
──町外れのボロ小屋に、一人の女が住んでいるらしい。
その女は口が真一文字に裂けているらしい。つまるところの口裂け女というやつだ。
そのボロ小屋には昔のっぺらぼうも住んでいたらしい。
誰も近寄りたがらないその小屋だが、たまに町に来る旅人が宿を借りることがある。
その旅人は口を揃えてこう言うらしい。
嗚呼、とても美しい人だよ。
3/9/2025, 12:35:25 PM