仕方ない。というのがまず結論となる。ないものねだり。
ないものねだりをしても仕方がない。この一文に二つの意味が込められて、その両方が適切だ。
簡潔明瞭に言葉を正すのなら、「ないものねだりをすることは人生において妥当なことである」及び「ないものねだりなんて行為は無駄であり、それをしても状況が改善することは無い」の両者の意味が込められて、そのどちらもが議題に対する結論として適当である。
ただ、単に仕方のないものであると結論だけで終わらせるには思考の出力量が少ないので、Whyに議題を移そうと思う。
何故ないものねだりが妥当でありかつ無駄であるのか。或いは、無駄であるのに妥当であるのか。
無駄とされる理由は単純して明快だ、「無い」「物を」「強請る」行為だからだ。この「無い」について具体性を求めると際限が無くなるので自重するが、少なくともその時間・場面において存在可能性が無い、可能性においても小数点以下を切り捨てればほぼ「無い」と断言できる物を欲しがり求めようと、存在しない以上願いは叶わないからだ。ないものねだりが「無い」ものねだりと表現される時点でその場に求めるものは無い、故に願い求める行為にそれが叶わないという結果が裏打ちされる。願いは精神充足的な評価軸においてプラスの要素を持つものだ。それが満たされないということは、算出される事象としてはマイナスになる。その概念の時点で自身にとって望ましくない結果となることが確定している行為は、それを実行する労力がそのまま徒労となる。故に、ないものねだりという行為は無駄である。
次に、ないものねだりが妥当とされる所以。上述した内容に対する矛盾を孕むこととなるが、というのも既に充分な量所持しているものを「強請る」ことはできないからだ。とうに手元にあり、所有権を有しているものを心の底から求めることはできない。なぜなら、認識として既に自身のものとして所持しているのだから。
対象が物質的なものでなかったとしても同じことだ。例えば救援。例えば愛情。例えば関係性としての他人。例えば才能。人はその瞬間己が主観において「必要としたから」願い求めるのだ。現状態では満たされないから必要とするのだ。主観的な不足を補うために、その時自身に足りていない対象を求める。これは感情的な、本能に近い衝動である。対してそれが手に入らないと判断するのは思考であり、思索であり、理性である。ないものねだりという単語において「ないもの」を判断するのは理性で、「ねだる」を出力するのは感情である。故に無いものを強請るというのは「無いものであるのにどうしてか欲しがってしまう」のではなく、「足りないものを欲しがる感情を存在しないという理屈で納得させようとする」至極順当な精神防衛、ストレスが解消されない状況に対する緩衝材としての機構である。故にこの行為は妥当であり、順当であり、人間として自然な反応である。
これらを基に最初の表現を正そうと思う。
ないものねだりは無駄である。得られないと理解しているものを求めるというのは無駄にコストを払っているに等しいからだ。
ないものねだりは妥当である。必要なものを得られない状況に欲を出力する感情も、手に入らない理由にそれが無いからであると理屈を述べる理性も、精神のバランスを保つために必要な要素であるからだ。
故に、ないものねだりは行為として判断するなら無駄なものだが、現象として認めるのなら全く意味のあるものである。
手に入らないとわかっているにも関わらず望んでしまうことは何ら異常なことではない。得られないという事実は望むことを無為にする必要を意味しない。
その観念と付随する感情は総て仕方のないものであり、否定されるべき理由は無い。
それだけだ。
3/26/2024, 11:05:47 AM