【目が覚めるまでに】
嫌な夢を見た。
久しぶりに見る夢だ。母親が出て行った日のこと。
シュンがまだ幼い頃、母親は外に男を作って家を出て行った。
最後の日、久しぶりに家族みんなで―親父と、母親と、3歳上の兄貴と―ファミレスに行った。兄貴はサイコロステーキを頼んで、シュンはチーズ入りハンバーグを頼んだ。シュンにはまだ加工されていない肉の美味しさがよく分からなかった。あんなの硬いだけだと思っていたから、ハンバーグとかソーセージの方が好きだった。母親は「最近太った」とか言ってサラダバーしか頼まなかったし、親父はビールと焼き鳥だけだった。
両親が並んで座っているのを見たのは久しぶりで、それが最後だった。イチャついた雰囲気こそ無いものの、仲が悪いようには見えなかった。親父が焼き鳥を1本食べ終わるタイミングで、母親が半分に切ったティッシュで次の焼き鳥の持ち手を包んであげたりしていたし、皮肉のこもった掛け合いも、しばらく連れ添った夫婦の、息のあった掛け合いそのものだった。
でもその夜、母親は出て行ったのだ。
シュンも兄貴ももう寝るように言われて、寝室で布団に潜った後に。あの日は久しぶりにはしゃいだせいか、すぐ眠ったはずだ。
夜中に、枕元に来た母親がそっとシュンの髪を撫でていたのを、夢うつつに覚えている。「この子たちの目が覚めるまでには、出て行かなきゃね…。」母親はそう言った。子どもを愛する普通の母親の、やさしい気持ちをたしかに感じる声で。
「なんで出て行くの?どこに行くの?」
そう聞きたい気持ちでいっぱいだったが、なぜか聞いてはいけないような気がして、寝ているフリをした。そのうちほんとうに寝てしまって、目が覚めたときにはもう母親はいなかった。いつもより飲み過ぎた親父が、居間で寝ているだけだった。
なんでこんな夢を見たんだろう。シュンはまぶたをギュッと閉じた。鼻の奥がズキズキする。血の臭いもするようだ。そうだ。昨夜また絡まれて殴り合いになったんだった。高校を留年してから、毎日夜歩いては喧嘩に巻き込まれてばかりだ。
全身の力を抜くように、ふうっとため息をついた。髪を撫でる風に気がつく。扇風機だ。扇風機??確か外でのされて気を失ったはずなのに。
薄目を開けると、知らない天井がそこにあった。なにやら美味しそうな匂いもする。
「うっ…」
体中の痛みに顔をしかめながら起き上がると、何かやたらとおしゃれな部屋にいた。シンプルで洗練されたインテリア。扇風機でさえ、なんかレトロでおしゃれなやつ。こう言っちゃなんだが変な緑色だ。シュンにはインテリアの事はよく分からないが、カフェっぽいな、という印象だ。ダークブラウンの木の家具が主に置かれていて、飾り棚の上にはなにやら垂れ下がるタイプの観葉植物が置かれている。
「おっ、起きたか。良かった〜。俺これから仕事なんだよ。身体、大丈夫そう?びっくりしたよ。店の前でぶっ倒れてるからさ。」
突然男の声が聞こえて振り向くと、これまたなんかおしゃれな男が立っていた。30代ぐらいか。黒いシャツにジーンズを着ていて、シャツの袖を肘まで折り曲げている。
「君、幾つ?高校生くらい?救急車呼ぼうかと思うくらい、血が出てたぞ。とりあえず応急処置したから大丈夫だとは思うけど、後で病院行ったほうが良いかもな。家には帰れる?病院には親と行ってくれよな。あー良かった。君が目が覚めるまで仕事できないか
と思ってたよ」
目が覚めるまで、か。さっきまで見ていた夢を思い出して、シュンはふっと笑ってしまった。
「え、なに?なんかおかしい事言った?」
おしゃれな男は不思議そうな顔でシュンを見ている。
「いや、大丈夫っす。なんか、ありがとうございました」
立ち上がって軽く頭を下げ、出口を探して周りを見回す。
「あー、まだ大丈夫。仕事っつっても、下のカフェだから。コーヒー淹れたし、パンとか卵とか焼いたから、食べてったら?」
テーブルの上には、こんがり焼けたトーストやスクランブルエッグ、ウインナーなどが乗ったプレートが置かれていた。湯気の立つコーヒーもある。
「あ、じゃあ、いただきます」
普通、助けてもらったとはいえ、知らない人の家でのんきに朝食を食べるなんて奇妙な話だが、男は下の階でカフェをやってる人間らしいし、なんとなく、近所のおばちゃんみたいな男の雰囲気に呑まれて、シュンはいつのまにか首を縦に振っていた。
(朝食なんて、何年ぶりだろうな)
シュンは考えた。そうか、母親が出て行って以来か――――。
「コーヒー飲める?美味しいやつだよ。自家焙煎だから」
そう言ってニヤリと笑う―本人は微笑んでるつもりかもしれないが―男の顔を見て、なんとなく好かんやつだな、とシュンは思った。
8/3/2023, 2:07:50 PM