trivial

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 早朝、二つの桶を持って、湖へ向かった。冬が近づいて、酷く指がかじかむけれどじっとこらえて桶を水面に浸す。
 これからもっと寒くなるのだわ。この程度で震えていてはだめよ。
 自分を叱咤しながら、澄んだ水が木桶に満たされていくのをじっと待つ。素早く済ませるのなら桶をすべて沈めてしまえばよいのだけれど、一杯に満たされた桶を二つも担いで帰るのは一苦労だから、グズグズしてしまう。なるべく傾斜をつけて、水が満たされてゆく様を惜しむように見ていると、不意に枯れ葉が一枚、眼前の水鏡に落ちてきた。
 しん、と静謐な空気をその葉が揺らす。それまで透き通るように凪いでいた湖面に波紋が広がる。ゆっくりと、けれど連続的に。
 私が水汲みをしていたのは湖のほとりだったけれど、対岸までその波紋は届いたのではないか、とさえ思ってしまった。
 私は枯れ葉の出どころを知りたくて頭上を見上げる。未だ日の出ない空は暗く、はっきりとは見えなかった。が、風に揺れる葉擦れの音から察するに、すぐ上に枝がせり出しているらしい。
 この枝から落ちたのね。
 ほっとため息を吐き、冷えで赤くなった指先で、静かに枯れ葉をつまむ。葉っぱを桶にいれるわけにはいかない。どうせ家で煮沸するとはいえ、手間は避けたい。
 やがて一つ目の木桶は満たされたので、取っ手をつかんで、地面に置く。わずかに水がはねて服に散った。桶が自重で湿った土にめり込むのを横目に、私はもう一つの桶を湖に浸し始めた。これが終わったら家に帰らなくちゃいけない。あの酷く憂鬱な家に……。
 待っている間、私は昨日のことを思い出していた。
 母様が都へ買い出しに出ているので、昨日と今日とは父様と家で二人きりだ。なぜだろう。以前は父様と二人でいてもちっとも気まずくなかったのに、最近は妙に距離を感じてしまう。父様の方も同じようで、昨日はほとんど会話がなかった。
「少し暗いな。蝋燭を一本増やすか」
「いいえ、大丈夫です」
 夕食中に発したその一言だけが口にした言葉だ。
 別に父様を嫌っているわけではないのだけれど、誓ってそんなことはないのだけれど、それでもどういうわけか近づきがたい印象を感じてしまう。母様が出ていってから、空気はいよいよ硬くなり、息苦しさが抑えられない。
 私がここでゆっくりしているのは、家に戻りたくないからなのだわ。
 帰り道に感じるであろう木桶の重さなど、家の空気の重さに比せば、大したものではない。
 そのことを自覚するとともに、いよいよ自分が嫌になって目線が落ちる。湖面には、気難しい顔をした寝起きの少女の顔が写る。
 そして私はその不機嫌そうな少女に向かって釈明をする。
 いいえ、私だってこれが良くないことなのはわかっているの。家族の生活を支えてくれている父様に対して、今の私の態度は適切とは言い難いもの。けれど、ではどうしろというの。実際問題として、私は自室にいるのだし、父様は一階の書斎にいるわ。まさかわざわざ父様の部屋をノックして「すみません、無礼な態度を取ってしまって。父様との距離感をうまくつかめないでいるのです」なんて言うわけにもいかないでしょう。
 しょせん私は、日常の大半を父様と同じ空間にはいない。損なわれた関係を修復するには、家にはプライベートな空間が多すぎるのよ、きっと。自室のぬいぐるみが父様に変わりでもしない限り、接する機会なんてほとんどないわ。つまるところ手詰まりなわけ。仕方ないと思うでしょう。
 気づけばとう二つ目の桶も満たされていた。中に木の葉の類が入っていないことを確認すると、桶を引き上げて地面に置く。そこまではできた。
 けれど、その先ができない。起ち上がって、木桶を二つ提げて、家に帰る。ただそれだけのことが酷く億劫で私はしばらくじっと湖面を見つめていた。
 しばらく経った。
 にわかに、一帯が明るくなる。
 日の出だ。
 最前まで暗くて見えなかった湖の対岸も、頭上の木の枝も、その輪郭を取り戻し始める。得体のしれないほど広く感じられていた湖が実はそれほど大きくなく、百歩も歩けば一周できるくらいしかないことが、新鮮だった。
 湖面がキラキラと光る。鏡の欠片をまぶしたように陽光を反射して、明滅を繰り返す水面に、私は日常のメランコリの一切を忘れて見入った。食い入るように見入った。
 澄んだ湖の底には何匹もの小魚が泳いでいて、背びれがかすかに透けて見える。冬が近づいているからか、思った以上に湖面には枯れ葉が散っていた。向かいのほとりは特に多い。
 美しい秋の湖を堪能し終えると、私は立ち上がった。水辺特有の、黒っぽく湿った土が、足元全体に広がっていたけれど、幸い、靴が汚れていることはなかった。
 日の出の力を利用して、勢い、木桶を二つとも、むんずとつかみ上げる。水が溢れないように、慎重に歩きながら家路をたどった。

 ところが家の煙突を森の中に見つけると、私は自分の高揚がしぼんでいくのを感じた。家にはやはり父様だけがいて、母様が返ってくるのは今日のお昼すぎだ。依然、父様とのわだかまりは溶けていないのだし、憂鬱なことに変わりはない。
 おまけに水汲み一つに小一時間は要してしまった。あるいは、父様に怒られるかもしれない。
 内心酷く怯えながら、重たい足取りで扉に向かう。ちゃぷりちゃぷりと両腕の水が鳴る。
 扉の前で、一呼吸し、努めて平静を装いながら、「ただ今戻りました」とつぶやきながら、足で器用に家の中に入り込んだ。

 まず最初に感じたのは、紅茶の香りだった。次いで、父様の不安げな顔を正面に見る。
 父様は何かを言おうとして口を開き、私の様子を目で確認すると口を閉じ、また開いて「桶を置いたらお茶を飲んでいなさい」とだけ言うと、そそくさと中に引き返していった。キッチンに一つのティーカップが置かれているのが見えた。
 私は桶を置くと、そこに向かい、湯気の立つティーカップにそっと手を当てた。かじかんでいた指先がじんわりと熱くなっていくのを感じる。
 しばらくそのぬくもりを楽しむと、私はカップを持ち上げた。
 父様は要するに、心配していたのだわ。
 私はとうにその事に気づいていた。言葉を交わすのが気まずい。それはきっと私の成長には不可欠なステップなのだろう。父様は、いつか私と素朴な会話ができるようになるのを、じっと待っている。そして言葉の代わりにこうして思いを伝えてくれている。
 紅茶の表面には湖で見たのとは違う、明るい表情の少女がいた。
 ふう、と細く息を吹きかけて、茶を冷ます。硬い湖面に木の葉の波紋が広がるように、柔らかな匂いが家中の空気に伝播していく。父様の書斎にもきっと伝わっているはずだ。
 そうしてしばらくの間、飲むこともせず、私はただ、紅茶の香りを楽しんだ。

10/27/2024, 2:58:01 PM