🐥ぴよ丸🐥は、言葉でモザイク遊びをするのが好き。

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081【行かないで】2022.10.25

「行かないで!」
広縁のほうから、娘の悲鳴のような声がきこえた。加持は、ふと、ちゅうちょしたが、書きさしの原稿用紙のうえに万年筆をおいて、立ちあがった。どうせ、アイデアにとどこおっていたのだ。ちょうどよい気分転換にもなる。なあんていうのは、心の中に住む編集担当へのいいわけで、つまりは、加持は、日頃はいかめしい相貌がめろめろになるほどに、一人娘の千代子には甘いのだ。
行ってみれば案にたがわず、千代子がからっぽの虫籠のかたわらで泣きじゃくっていた。わけを問うまでもなかった。庭の植え込みのどこかから、コオロギの声がしている。そこに逃げられたのか、ということは明らかであったが、あえて再び捕まえようという気持ちにはなれなかった。
「どうした。逃げられちゃったのか」
わあわあ泣きながらこちらに歩みよる千代子が、こくん、と肯んずる。ただもうそれだけで、加持は着物の下の胸がきゅんとする。
「わけをはなしてごらん」
しゃがみながら抱きしめて、おつむをなでてやると、健気にも千代子は泣き声をおさえて、餌に煮干しをあげようと蓋を開けたら逃げられたのだ、と答えた。まあ、それだけでなく、虫を指でいじろうともしたのだろうな、という予想は加持にはついたが。
「千代子はお父さんに、どうしてほしい。もういちど捕まえてほしいかい」
「うん」
「コオロギさんと一緒に遊びたいのかい」
「うん」
そうかそうか、とつぶやきながら、加持は娘を膝に抱え上げた。とんとん、と背中をたたいてあやしてやると、千代子も幾分、おちついてきたようである。
「千代子は、お外で遊ぶのは好きかい」
「うん、大好き」
「なるほど。では、コオロギさんはどうだろうね。やっぱりお外が楽しいんじゃなかろうか」
千代子の目がびっくりしている。もともとまんまるの目が、もっとまるくなっている。
「これからは、コオロギさんと、お庭でかくれんぼしている、ってことにしたらどうだろうかね」
ほら、いくよ、と抱きあげて、庭におりる。ガキ大将のころから虫取りは得意中の得意だったから、わざわざ鳴き声をあげてくれる虫一匹を見つけることなぞ、造作もない。
「見えたかい」
しかし、千代子は首を横にふった。
「ふふふ……まだ目がコオロギになってないのだね」
そのまま広縁にもどり、千代子をおろした。
「いいかい。鳴き声がしたら、それが、探しにおいで、の合図だよ。音をたてずにそおっと探してごらん。そのうちちゃんと見つけられるようになるからね。お父さんも最初は全く見つけられなかったのだよ」
などとなどと話しかけながら、広縁のへりにふたりで仲良くならんで腰掛けているうちに、千代子の気持ちも、コオロギと庭でかくれんぼ、という新しい遊びのほうにむけられてきたようである。
あと数日もすれば、鳴き声さえしなくなる、ということは、加持にはわかっていた。虫の命とはそういうものだ。それに急に冷え込んでもきた。ある朝目覚めたら、愛娘である千代子が静かに動かなくなったコオロギを目撃する、というのは、加持にはたえられなかった。ただそれだけのことだったのである。

10/25/2022, 2:30:01 AM