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短編小説集
「光のさす方へ」
第一話 
窓辺のコーヒー

在宅仕事を始めて三年。
気づけば、誰かとまともに会話したのはいつだったか思い出せない。パソコンの画面越しに交わす短いメッセージだけが世界との唯一の接点になっていた。
昼下がり、近所のカフェに向かう。
外に出る理由が欲しくて無理やり作った習慣だ。
店の扉を開けると、コーヒー豆の香りがふわりと鼻をくすぐる。それだけで少しだけ救われる気がした。
窓際の席には、今日もあの老人が座っていた。白い髪、落ち着いた背筋、そしていつも同じ古びた文庫本。
こちらを見ているわけでもないのになぜか気になる存在だった。注文を済ませ、席に向かおうとしたときだった。老人がふと顔を上げ目が合った。
そして柔らかく微笑んだ。
「その席、空いてますよ」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がざわついた。
誰かに話しかけられるなんて久しぶりだったからだ。
「...ありがとうございます。」
ぎこちなく返事をし、向かいの席に座る。老人は本を閉じ、こちらに視線を向けた。
「毎日、同じ時間に来ますね。」
驚いた。自分の存在なんて誰にも気づかれていないと思っていた。
「ええ...まあ習慣で」
「習慣は大事ですよ。人は、続けることで救われることもありますから。」
その言葉は、思いのほか深く胸に落ちた。
老人はそれ以上多くを語らず、また本を開いた。
けれど沈黙は不思議と居心地が悪くなかった。
店を出る頃には、心が少しだけ軽くなっていた。
世界がほんの少しだけ、色を取り戻したように感じた。

第二話
止まった時計の針

会社での大きな失敗。上司の冷たい視線。同僚の溜息。
そのすべてが胸に刺さり、呼吸が浅くなる。帰宅しても心の中の時計は止まったままだった。机の上には退職届のテンプレート。何度も開いては閉じ、また開く。その繰り返し。そんな時、修理に出していた古い腕時計が届いた。祖父からもらった傷だらけの機械式時計。箱を開けると職人のメモが添えられていた。
「大切に使われていた時計ですね。まだまだ動きますよ」
その一文を読んだ瞬間、胸が熱くなった。祖父の声が蘇る。➖➖針が止まっても、直せばまた動く。
時計を手に取ると秒針が規則正しく刻んでいた。その音が止まっていた自分の時間を揺り動かす。翌日、会社に向かった怖かった。でも逃げ続けるほうがもっと怖かった。
「昨日の件ですが...もう一度、やらせてください。」
震える声でそう言うと、同僚が驚いた顔をした。そしてゆっくりとうなずいた。
「一緒にやろう、手伝うよ。」
その瞬間、胸の奥で何かが動き出した。時計の針のようにゆっくりと確かに。

第三話
あの日の手紙

部屋の片付けをしていたら、古い箱が出てきた。開けると一通の封筒が入っていた。宛名は、昔の親友の名前。
喧嘩別れしたまま、何年も連絡を取っていない。あの日素直になれなかった自分をずっと責めていた。封筒を開くと、震えるような字で書かれた手紙が出てきた。そこには、あのとき言えなかった言葉が並んでいた。
「ごめん」「ありがとう」「本当は、ずっと友達でいたかった。」
読み終えた瞬間胸が締めつけられた。どうして出さなかったのか。どうして、あの時一歩踏み出せなかったのか。でも今ならまだ間に合うかもしれない。そう思った。親友の新しい住所を調べ、手紙を書き直した。昔より少しだけ素直な言葉で。ポストに投函した瞬間、心の重さがふっと軽くなった。返事はまだ来ない。でも、それでいい。大切なのは過去に縛られたまま立ち止まることでははなく未来に向かって歩き出すことなのだと気づいた。空を見上げると雲の隙間から光が差していた。

1/2/2026, 4:29:01 AM