🐥ぴよ丸🐥は、言葉でモザイク遊びをするのが好き。

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103【夫婦】2022.11.23

判決文を書かねばならない。しかし、手がすすまない。裁判員のひとりが涙ながらに訴えた、
「これでは夫婦ではなく、主人と奴隷の関係ではないですか。私は夫を殺すところまで追い詰められた被告人の気持ちがよくわかります。うちの夫婦関係だってそんなようなものでした。さいわい私はもうすぐ離婚が成立しそうなので、私が事件をおこしかねない、なんていう心配はありませんが、この人は離婚したくてもできない事情があったのですよね。だから、こんな結末になってしまった。もしこれで十分に情状酌量がしてもらえないのなら、私のように夫という名の男の暴力に苦しめられている妻という名の女性が報われません」
ということばが、もう何日も何日も耳の奥にこびりついて離れないのだ。
私はさっきから、一文字でいいからとにかく書き出そうとしては、キーボードのうえで指が引き攣ったように固まってしまうのを繰り返している。

だって、そう……判決を下すなら。まずは自分に対して。なのだから。

このデスクの抽斗には、妻から渡された離婚届がはいっている。
いきなりそれを目の前につきつけられたときは、わけがわからずパニックになり、逆上し、あたりのものを、文字通り手当り次第にぶん投げ散らかした。私のせいでリビングは滅茶苦茶になってしまったというのに、その有様に、ざまあみろ、とでもいういう快感しか、私にはなかった。だが、この殺人事件の審理を通じてわかってきた。私は私の妻に対して、よき夫とはいえなかったのだ、ということが。
私の中で実質的に裁いていたのは、私が行っていた私からの妻への行状だった。私は私の内臓がえぐり出され曝け出されていくのを目の当たりにしているような思いをしながら、暴力と暴言で己を支配してきた男を惨殺した一女性である被告人の殺人動機に向かい合ってきたのだった。
私はそっと抽斗をひらいたものの、やはり、あわてて閉じた。やり直したくても、もうやり直せない。無理矢理夫婦関係を継続しても、行き着くところは殺人、とまではいかなくても、それに似た、荒涼とした関係になるのだろう。にもかかわらず、あきらめきれない。
「……赦してくれ……」
いまさら間に合わない謝罪だとはわかっている。私が裁いてきた被告人達は、法廷で、おろし金に体を削られるチーズのような痛みと身が消え入るような思いをしながら謝罪してきていたのだとの理解は得られたが、それがなんの役に立とう。
ただ時間だけが過ぎていった。遠くの方で、終電が走り去るのがきこえた。私は途方に暮れたまま、ひとりで静かに咽び泣いた。

11/23/2022, 9:51:12 AM