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たった1つの希望

あと数時間で感じなくなる自分の鼓動に意識を向けながら、男はこれまでのことを思い出していた。
妻と出会ったのは8年前のことだ。会社の食堂でいつも1人で食べていたその姿に、いつの間にか心奪われていた。勇気を出して自分から話しかけた時は、ビックリさせてしまって咽せていたのを覚えている。
その時から、一緒に食事をしたり、映画を見に行ったりして互いを大切に思う心を感じながら、遂には結婚した。結婚してすぐに子供ができた。娘だ。今年で4歳になる。
子育ては大変だった、妻の負担を減らそうといつも任せっきりにしていた洗濯や掃除を率先してやってみた。その度にここは違う、それじゃダメと言われ、へこんだが今思えば良い思い出だ。
大変だが、守るべき大切な人の笑顔を見る毎日が続くと思っていた。幸せは長くは続かないようだ。
前兆はあった。地震が多くなったり、浜辺にイルカが打ち上げられたりなどだ。
総理から国民に向けてのメッセージとしてTVから聞こえてくる内容は、あと数ヶ月のうちに地球上の陸地の大半が海に沈むと言う内容だった。
総理はこうなる事が前からわかっていたかのように、生き残る術を国民につげた。
ランダムに選ばれた国民の内の何%かを開発に成功した方舟に乗せ宇宙に避難するという方法だった。
この放送を聞いた時には男は動き出していた。動き出すには遅すぎたかもしれないが、やらないよりは良いはずだと。
あらゆる手を使った。コネというコネを使い確実に方舟に乗る方法を探ったが無駄だった。
妻は、あなたと一緒なら良い。と言ってくれた。
決意が揺らいだ。
だが生きていて欲しい。
自分に喝を入れ、最後の手段に出た。やるしか無い。
方舟に乗る日、俺は古くからの親友の前にいた。
親友は優秀で権力のある地位につけていた。
親友はベットで1人の人間と抱き合って横になっていた。
息子だ。
2人の顔は青ざめていて涙を流していた。
事切れていた。
俺が殺した。
血まみれになった手を洗い。方舟に乗るためのカードキー胸ポケットに入れ妻と娘の待つ発射場に急いだ。
クソ野郎だ。俺は。殺しておきながら泣きながら親友への謝罪の言葉を言う中途半端なクソ野郎だった。
カードキーを妻に渡し、乗せようと急かした。
妻は何で貴方と一緒じゃ無いのとしつこく問われたが、別の方舟に乗ると誤魔化した。
発射場の通路で妻と娘を抱きしめた。
たった1つの希望を精一杯抱きしめた。


ダークブルーの空に飛び立つ巨大な箱を眺めて、男は海の底に沈んだ。

3/3/2023, 6:15:21 AM