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振り向いた刹那、唇に触れたのが初音のそれだと気がついたときには、初音の顔はもう見えなくなっていた。

「ごめんね、都(みやこ)」

鼓膜を震わせた言葉の意味を理解したときには、
残ったのは、陽炎の向こうに遠ざかる背中と小さくなる足音。焼けるような陽射しと、確かに触れた感触。



等々力初音と初めて出会ったのは、1年前。高校1年生。夏の香りが濃くなる頃だった。

12クラスもあるマンモス校だから、同級生といえど知らない顔の方が多い。
その証拠に美化委員で同じ花壇の担当になるまで、私は初音の顔すら知らなかった。

「1年よろしくね」

そう言ってはにかんだ初音の長く艷やかな黒髪は、夏と同じにおいがした。

初音が長く伸ばした髪を飴細工のように滑らかに結い上げていくのが好きだった。美しい所作というものは見ているだけで心が満たされるものだ。



初音とは、あの後会うことは無かった。
夏休みは美化委員の仕事はもう終わりだった。
交換した連絡先は、使えなくなっていた。

休み明けの新学期、初音が外国へ引っ越したことを知った。

思い出作りして

「謝らないでよ」

あの刹那にかけられた魔法(のろい)が、解けない。

夏の香りが鼻を掠める。

初夏の香り。

高鳴る胸とともに思い出す。

初音の香りだ。

4/28/2026, 3:54:01 PM