#だんだん理性が溶けていく話
■冷たくするのをやめたくない人の場合
〈理性が溶けるまで:10〉
彼女はカフェのテーブル越しに座る相手を
じっと見つめていた。
相手は、何かしらの話題で盛り上がっているようだが、
彼女の頭の中は別のことでいっぱいだった。
「この人、なんでこんなに話が上手いの?」と、少しイラっとしながらも、どこか感心している自分がいる。
「それでね、君の笑顔って、なんかこう…太陽みたいだよね」と、相手が突然言った。
彼女の脳内で警報が鳴り響いた。
「え、何それ?褒めてるの?
いや、そんな簡単に褒められても困るし!」
と心の中で叫びながら、口から出た言葉は冷たかった。
「…は?それ、誰にでも言ってるんでしょ。」
彼女はわざと冷たいトーンで返したが、
内心では顔が熱くなるのを感じていた。
相手は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「いやいや、本当にそう思ったから言っただけだよ。」
彼女はさらにしどろもどろになりながらも、
冷たい態度を崩さないように努めた。
「ふーん、別にどうでもいいけど。」
しかし、彼女の心の中では、
何かが少しずつ溶け始めていた。
それが何なのか、彼女自身もまだ気づいていなかった。
続く
〈理性が溶けるまで:9〉
その日、二人は本屋で待ち合わせをしていた。
相手が「本好きなんだ」と話していたのを思い出した彼女が提案した場所だったが、自分でもなぜそんなことをしたのかわからなかった。
だって、彼女は本なんて滅多に読まないのだ。
「このエリアには、小説がたくさんあるね。
好きなジャンルとかある?」
と、相手が棚を指さしながら聞いてきた。
彼女は少し戸惑いながらも、
すぐに冷たい表情を作り直した。
「特にないけど。別に興味ないし。」
そんな彼女の様子に気づいたのか、
相手はにっこり笑いながら、
「じゃあ、君に似合いそうな一冊を選んでみてもいい?」と言った。
彼女の心の中で警報が鳴り響いた。
「何それ、どういうこと?似合うって何?」
と心の中で混乱するが、口から出たのは相変わらず冷たい言葉だった。
「…勝手にすれば。」
そう言いつつも、彼女は何か期待している自分がいることに気づいてしまった。
それが悔しくて、ますます冷たく振る舞おうとする。
相手は棚を探し回り、最終的に一冊の本を手に取った。「これなんてどう?
タイトルが『冷たい心が溶けるとき』なんだ。」
彼は満面の笑みで彼女に本を差し出した。
彼女は無表情を保とうとしたが、
内心では完全に不意を突かれていた。
「そんなの…私には関係ないから。」
と冷たく返したが、頬が赤くなるのを感じた。
続く
〈理性が溶けるまで:8〉
彼女は初めて訪れる古い映画館に足を踏み入れていた。
相手が「ここ、レトロな雰囲気が最高なんだよね」
と何度も勧めてきた場所だったが、
心の中では「なんでこんなところが好きなの?」と小さな疑問が浮かんでいた。
映画が始まる前、相手がポップコーンを買いに行くと言って席を立った。
その間、彼女は劇場の雰囲気を見回しながら、
「これがいいって思う感覚、ちょっと変わってるかも」
と冷たく考えていた。
しばらくして相手が戻ってきた。
彼はなぜかポップコーンのバケツのほかに、
小さなチョコレートバーも手に持っていた。
「これ、君が甘いもの好きそうだから買ってみたよ。」と、軽い調子で渡してきた。
彼女はその瞬間、
心が一瞬だけふっと温かくなるのを感じた。
しかし、その感覚を打ち消すように冷たく言い放った。「…別に、こんなのいらないけど。」
「そっか、じゃあ僕が食べるね。」
と言いながら、相手はチョコをポップコーンのバケツにさっと放り込んだ。
そのあまりに自然な仕草に、
彼女は思わず笑いをこらえそうになり、
慌てて真顔に戻した。
映画が始まり、暗闇の中でスクリーンが輝き出す。
彼女はそっとチョコバーに視線を向けながら、
「…やっぱり、少しだけ食べようかな。」
と心の中でつぶやいた。
続く
〈理性が溶けるまで:7〉
雨がしとしと降る中、二人は駅前の商店街を歩いていた。薄暗い空と濡れた舗道に、静かな雨音が響く。
彼は突然小さな花屋に立ち寄り、
「ちょっとだけ待ってて」と言い残して店内へと入った。
彼女はその様子を傘越しに見つめながら、
小さくため息をついた。
「こんな雨の日に、わざわざ何してるの?」
と思いつつも、どこか気になって仕方がなかった。
やがて彼が戻ってきて、
手には一輪のアネモネの花があった。
「これ、君に合うと思ったんだ。」と差し出してくる。
彼女は訝しげにその花を見つめた。
「…何それ?何が合うってわけ?」
冷たいトーンで返したが、
心のどこかで胸が少し高鳴るのを感じた。
彼は少し笑いながら答えた。
「ほら、アネモネの花言葉って『期待』とか『可能性』なんだって。君の冷たさの奥にも、何か温かいものがある気がして。」
さらに彼は冗談めかして続けた。
「ほら、冷たい雨だって、いつか晴れるでしょ?
君の冷たさも、実はそんな感じなのかなと思ったんだ。」
彼女はその言葉に、胸の奥を触れられたような気がした。「…別に、私はずっと曇りのままだから。」
冷たく返したが、頬の熱さを隠すため視線をそらした。
彼は笑顔を絶やさず、
「じゃあ、いつか晴れるのを期待してこの花を贈るよ。」と優しく言った。
彼女は黙ってその花を受け取ると、雨音に紛れるように
小さく「…ありがとう」とつぶやいた。
続く
〈理性が溶けるまで:6〉
雨上がりの午後、二人は街角にある小さなギャラリーを訪れていた。
彼女が相手に誘われるがまま、
特に興味もなく足を踏み入れた場所だった。
壁に掛けられた絵画を無表情に眺めながら、
「こんなの見て何が面白いの?」
と冷めた考えが頭をよぎる。
一方、彼は目を輝かせながら、
絵の一つ一つに感想を述べていた。
「この色使い、君の雰囲気に少し似てるかも」
と、ふと笑顔で彼女に言った。
「は?」彼女は眉をひそめた。
「何それ、適当なこと言わないでよ。」
冷たく返しながら、なんとなくその絵に目を戻すと、
深い青と柔らかな光の描写が印象的だった。
「だって、どこかクールで静かだけど、
その中に暖かさを感じるんだよね。」と彼が続ける。
彼女の心は一瞬揺れ動いたが、
すぐにその感情を打ち消した。
「…そんなこと言われても、全然嬉しくないけど。」
相手は気にする様子もなく、
「まあ、そう言うと思ったけどさ。
でも本当にそう思ったんだ。」と肩をすくめて笑った。
その飾らない態度が、彼女の胸の中に小さな波紋を広げていく。
ギャラリーを後にする頃、
彼は再びアネモネの話題を持ち出した。
「そういえば、アネモネの花言葉の『期待』って、
なんだか今日の空気にも似てるね。
雨上がりみたいに、これから何かが始まる予感がする。」
彼女はその言葉に無言で歩き続けたが、
心の中では彼の言葉が静かに響いていた。
「…どうして、こんなに自然に心に入ってくるの?」
と、冷たく装った表情の裏で
思わず問いかけてしまう自分がいた。
続く
〈理性が溶けるまで:5〉
その日、二人は都会を離れ、静かな丘の上を目指していた。彼が提案した場所で、彼女は「退屈なところなんだろうな」と思いながらも、断る理由もなくついていくことにした。
丘の頂上に着くと、そこには広がる草原と遠くに見える街並み、そして青い空が広がっていた。
風が頬を撫で、彼女は無意識に深呼吸をした。
「…まあ、悪くはないかも。」と心の中でつぶやく自分に驚きつつ、それを表に出すことはなかった。
彼は一枚のスケッチブックを取り出し、
楽しそうに鉛筆を走らせながら言った。
「この景色、どうしても描いてみたくてね。
ちょっと付き合ってくれる?」
彼女は「ふーん」と冷たく返事をしつつも、
横目で彼のスケッチをちらりと盗み見た。
描かれている風景はまだ未完成だったが、
その中には彼女自身の姿も描き始められていた。
「…なんで私まで描いてるの?」
彼女が少し冷ややかに尋ねると、
彼は軽く笑いながら答えた。
「だって、君もこの景色の一部でしょ?
それに、ここにいる君の表情、
なんだか特別だと思ってさ。」
彼女は「別に、そんなのどうでもいいけど。」
とそっけなく返したが、
頬が少し熱くなるのを感じていた。
そして、最後に彼が描き足したのは、
彼女の隣にそっと置かれた一輪のアネモネだった。
その花が持つ柔らかさと可能性が、彼女の冷たさの中にひっそりと溶け込むように描かれていた。
彼女は黙ったままその絵をじっと見つめた。
「…何それ、意味わかんない。」と言葉にしながらも、
どこかその絵に引き込まれている自分がいた。
彼は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「君自身が、僕にとって
この景色の中で一番特別だからかな。」
彼女の心に、小さな波紋が広がる。
そしてその波紋が何を意味するのか、
彼女はまだ答えを見つけられなかった。
続く
〈理性が溶けるまで:4〉
その朝、二人は久しぶりに早く会う約束をしていた。
彼が「日の出を見に行こう」と提案し、
彼女は冷たい口調で「なんでわざわざ?」と返したものの、断らなかった。そして気づけば、
まだ薄暗い時間に待ち合わせ場所に立っていた。
二人が向かったのは、少し高台にある公園。
ゆっくりと空が明るくなり始める中、
彼は自然な笑顔を浮かべ、
「ここの朝日、すごく綺麗なんだ」と話した。
彼女は心の中で「そんなの普通でしょ」と思いつつも、
言葉にはせずに歩き続けた。
展望台に到着し、二人並んで静かに空を見上げる。
徐々に赤みを帯びる空は、冷たい彼女の心にどこか穏やかな温もりをもたらしているようだった。
「すごいなあ、この色合い。」と彼がぽつりとつぶやく。「なんだか、君のことを思い出すよ。」
「…意味わかんないし。」
彼女は反射的に冷たい返事をしたが、
目は彼の顔をちらりと見てしまった。
そこに浮かぶ表情が、
なぜか彼女の胸の奥をじんわりと暖める。
「なんでって聞かれるかもしれないけど、
言葉にするのは難しいな。ただ、君もこんなふうに、
少しずつ変わっていく気がするんだ。」
彼は微笑みながら言った。
彼女はしばらく黙り込んでいたが、
目の前の朝日に目を奪われながらつぶやいた。
「…まあ、悪くない景色だけど。」
その言葉には、ほんの少しだけ柔らかさが混じっていた。
そして彼女の隣で静かに笑う彼を見て、
冷たい態度の裏に隠していた小さな感情が、
朝日に照らされてじんわりと溶けていくような気がした。
続く
〈理性が溶けるまで:3〉
その日は夜のイベントに出かけることになっていた。
街中の広場で行われるライトアップショーに彼が誘い、
彼女は半ば仕方なく承諾した。
華やかなものに興味がない彼女は、
「どうせ人が多いだけでしょ」
と冷たい態度を隠さずにいた。
二人が広場に着くと、すでにライトアップが始まり、
色とりどりの光が建物や木々に映し出されていた。
彼女は周囲を見回しながら、特に感動する様子もなく
「ふーん」とだけ呟いた。
「すごいね、この光。」と彼が言った。
「でも、本当に一番綺麗なのは、
こんな光景を見ている君の瞳だと思う。」
「…何それ、また適当なこと言ってるし。」
彼女は反射的に冷たい言葉を返したが、
心の中ではその言葉が小さな波紋を広げていた。
ライトアップの色が移り変わる中、
彼はふとポケットから何かを取り出した。
それは、先日丘で描いたスケッチだった。
彼女の姿とともにアネモネの花が描かれたあの絵だ。
「これ、また見せたくて持ってきたんだ。」
彼は少し照れくさそうにスケッチを彼女に差し出した。
彼女は無言でそれを受け取り、
スケッチの隅々まで目を通した。
「…なんでこんなの、まだ持ってるの?」
と冷たく問いながらも、
絵の中の自分と花に不思議と引き込まれる感覚を覚えた。
「だって、この絵には君がいるから。」
彼は真剣な目でそう言った。
「このアネモネは、君の可能性を象徴しているんだ。まだ知らない自分を見つけるって、素敵なことだと思うよ。」
彼女の胸の中に、また新たな波紋が広がる。
そして彼女自身も気づかないうちに、
その冷たい瞳が少しずつ暖かみを帯びていった。
続く
〈理性が溶けるまで:2〉
夜の街、二人は静かに歩いていた。
にぎやかな通りから少し外れたところで、
彼が「ここ、僕が好きな音楽を演奏しているカフェなんだ」と誘い、彼女は「どうせ普通の音楽でしょ」と冷たい口調で答えながらついてきていた。
カフェの中には、小さなステージがあり、
ジャズの演奏が始まった。
彼女は特別音楽が好きというわけでもないが、
流れる音色が心地よく、
つい耳を傾けている自分に気がつく。
彼は演奏を聞きながら彼女を見つめ、
「この曲、なんだか君に似てる気がする」
とぽつりと言った。
「は?なんで?」
彼女は冷たく問い返す。
「最初は少しとっつきにくいけど、
よく聴くと深みがあって、どこか暖かいんだよね。」
彼は静かに微笑んだ。
彼女は「…そういうの、ただのこじつけでしょ」
と冷たい声を出すが、心の中ではその言葉が静かに響いていた。そして、演奏が終わる頃には、彼女の気持ちも少しだけ柔らかくなっていた。
演奏が終わった後、彼はポケットから小さなメモ帳を取り出し、その場で何かを書き始めた。
そしてそのメモ帳に描かれたのは、
またしても彼女だった。
彼女の横に何か花が描き添えられている。
「今度は何?」彼女が冷たく聞くと、彼は軽く笑いながら「君が今日の音楽みたいに見えたから、ちょっと描いてみたんだ。」と答えた。
彼女はその絵に視線を向け、
描かれた自分とその横に添えられたアネモネを見た。
そして小さな声で、「…まあ、悪くないかもね。」
と呟いた。
彼女のその一言は、これまでの冷たい態度に隠れていた感情を少しだけ解き放つものだった。
それに気づかないふりをしながらも、
彼女は心の奥で、小さな何かが完全に溶けかけていることを感じ始めていた。
続く
〈理性が溶けるまで:1〉
桜が咲き始めた春の午後、
二人はまた街の公園で会っていた。
いつものように彼の提案で、
新しい景色や体験を共有する時間だったが、
今日は少し違っていた。
彼女の冷たい態度が
どこか柔らかさを帯び始めていたのだ。
ベンチに座り、彼が暖かな笑顔で何気なく言った。
「桜も綺麗だけど、僕にとっては君が一番特別だよ。」
彼女はいつものように冷たく返そうとしたが、
口にする前にその言葉が喉で止まった。
「…何それ。」と、か細い声で呟くだけだった。
彼はそんな彼女の様子に気づかないふりをして、
カバンから大事そうに包みを取り出した。
中身は、これまで描きためたスケッチブックだった。
丘や展望台、ライトアップショー、ジャズカフェなど、
これまでの思い出が詰まった絵が並んでいる。
「全部、君がいる景色なんだ。」彼がそう言うと、
彼女は驚いたように目を見開いた。
「…なんで、そんなこと。」彼女は冷たく装いきれず、
視線を絵に落とす。最後のページには、
彼女と一輪のアネモネが美しく描かれていた。
「君は、自分では気づいていないかもしれないけど、
たくさんの可能性と美しさを持ってる。それを忘れないでほしいんだ。」彼は静かに語りながら、その絵を彼女に手渡した。
彼女は何も言えず、ただその絵を見つめた。
今までの冷たい理性は、完全に溶けてしまっていた。
初めて彼女の心が
無防備なまま相手に向き合う瞬間だった。
「…ありがとう。」
彼女は小さな声でそう言いながら、
彼の顔をじっと見つめた。
その瞳には、ほんのりと暖かさが宿っていた。
二人の間には、桜の花びらが舞い落ち、
春の風が優しく吹いていた。
終わり
3/15/2025, 10:16:51 AM