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『明日世界が終わるとしたら、何を願おう。』

 浮かび上がってしまった意識がそんな自問を引っかけてきた。
 瞼を開けないまま、彼は頭の中でゆっくりとその問いを転がす。古い空調の唸りが壁を震わせ、ひんやりした風が肌を撫でる。川底に沈む石となって、頭上を流れる水に身を任せる。
 天災か、突然の戦か。あるいは、今課されている仕事が全部終わって、用済みになって――もしくは、黴びた洋墨の臭いに総身を蝕まれて、この生が周囲の環境もろとも終わりを告げるとしたら。
 すべてが消え失せてしまうのであれば、何を願っても詮ないことではないか。そうやって思考を放棄したくなる一方で、いや待てよ、と踏みとどまりたい気持ちも確かに存在する。
 自分たち『文豪』は、量の多寡はあれど何らかの作物を世に残し、一度生を閉じた身だ。言い換えれば、自身の世界が終わるまでに、筆一本で小さな世界を構築し、それを後世に伝わるかたちで残した存在だ。
 ひとたび原稿用紙の山を築けば、書いた本人さえ存在を忘れてしまっていても、後世の誰かが掘り起こしてきたりもする。作者不詳の冠を被せられても、千年を越えて語り継がれてきた物語だってある。文壇を追われながらもペンを手放さなかった者の草稿ノートだって、どこかの文学館の倉庫でひっそり息づいているという。
 残ってしまうものなのだ。すべてが消え失せない限りは。
 そこまで考えて、彼はひときわ深く息をついた。水面へ上っていく泡を見送りながら、背中と意識をシーツに際限なく沈めていく。空調の唸りが遠ざかる。
 たとえ原稿用紙一枚でも、それが誰の目に触れることがなくても、一刹那でも永く残り続けてほしい。
 それさえはっきりすればもういつでも消えられるけれど、差し当たっては眩い朝日のもとに目覚められるよう願いながら、彼はふたたび眠りに落ちる。

5/6/2023, 4:46:48 PM