楽楽 がくわく

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 眠れないほどに、重い。
時々眼球の底に黒い蜜が溜っているように思える。
一瞬だけ閑散な砂場を思わせるノイズ音が走って、深く一呼吸着く。高校に行ってから肉体的にも精神的にも疲れる事が増えた気がした。

 電車が到着する。あまり細かくは見ていないが今日も時間通りらしい。時間通りらしいにも関わらず、あたしの身体はまだ早いんじゃないかと思う。電車が停車するけたたましい音に耳が壊れそうになった。
 誰もがたまに経験する「超絶怠い日」というのが丁度今日らしく、何をする気も起きなかった。
虫の知らせというのか、イヤな夢を見て、たまたまいつもより早く起きた。まだ5時だというのに寝付けなかった。長い夜だった。
 遅刻だわー。メッセージのプッシュ通知が、待ち受けの写真の上を滑るようにして飛び出した。佑美からだった。


 少し幼い頃に、蛾を殺したことがある。その夢は、大体月一くらいの頻度で流れた。
地面から数センチ離れた所をふらふらと飛んでいたその蛾を見つけたときにあたしは、目の奥に焼き付く美しさを覚えた。
そっと捕まえて、片手で握り潰す。即死はしなかった。羽の鱗粉が掌に着いて鬱陶しかった。
亡骸は土に埋めた。生き物が死んだら土に還るんだよ、とおばあちゃんが言っていた。

 掴もうと思っていた花瓶を間違えて倒してしまった時のように、呆気なく死の感覚が心に積もった。

 何故、あの蛾はあんなにも綺麗だったのだろう。
別に虫は好きじゃないし、昆虫がどうのこうのと美装的にに話す古田という理科の教師の話を聞いていても心がときめくようなことはなかった。
なのに何で、あの日に焼き付いた色味があたしの心を鷲掴みにしているのか不思議だ。

 次の駅に着いたとき、佑美はあたしを見つけ乗り込んできた。佑美は開口一番「遅刻だわー」と言った。
 佑美は、いつも同じような事しか言わない。二度三度と同じ会話を繰り返す。話すという行為をどうでも良く感じているのだと思う。
「マジ?」
「マジマジ。もう十五分遅れだよ。やばくない?」
 やーば。「や」と「ば」の間を長く伸ばす。でっしょー、と佑美が同じテンションで返した。
「今日さ、変な夢見たんだけど」
「おん、マジ。どんな」
「蛾を潰す夢」
「うっわー」
 うーわ、グロっ。佑美は肩を竦めた。スプラッタとか好きだっけ、と訊かれた。そんなの全く興味ない。

「現実見るのがヤなんじゃないの」
 視線を車窓の方へ向けたまま、佑美が言った。肩がピクリと震える。
「それって昔の夢なんでしょ、その頃に戻りたいんじゃないの」
 そうかなぁ、ひょっとしたらそうなのかもだなぁ。独り言のようにぽつんと漏らす。目には床が映っている。時折ぐらぐらと揺れて、踏んだら底が抜けそうになる。
 現実か。確かに直視するのは嫌だな。
「そういうのないの、佑美は」
「あたし?そういうの全然ないわー。っていうかそもそもあんまし夢見ない派」
「そんなんあるの」
「あると思うよー、知らんけど」
 橙色をした膝頭をぐいと伸ばし、佑美は呟く。
いつの間にかスマホを触っている。
「3時限目マジムリ。。」と書き込まれていた。あたしもスマホを取り出し、隣からいいねを飛ばす。

 電車の揺れる音が頭の中にがんがんと響く。
ああ、いい夢だった。また見れたらいいなと思う。
浮き上がった意識は、日々の中にふわりと溶けた。

12/6/2021, 8:17:37 AM