ヒトモス

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『特別な夜』

 1匹の蝶が、午後の光のなか、ひらひらと風に舞う。
 それを夢中になって追いかける、幼少の女の子がいた。こるりだ。走りっぱなしで頬は赤く、足元も時々つまづくが、目をぱっちりと開けて、笑みを浮かべながら蝶を追いかける。
 蝶を両目で見続けながら走っていたこるりは、突然柔らかい何かを踏みつけて大きく転んだ。
「ぐえ」
 顔をこすりこすり体を起こして振り返ると、そこにはまっすぐな髪が印象的な男の子がいた。その男の子は、こるりよりやや年下に見える。お腹を踏まれたらしいその子は、痛みに顔を顰めながら、つまづいて倒れたこるりのほうを見ていた。
「あの、ごめんね!見てなくて。大丈夫?」
 こるりは急いで飛び上がって、その子を介抱する。
「だ、大丈夫。もう治った。」
 その男の子はこるりを安心させるように笑いながら上半身を起こした。
 風がそよそよと2人の周りの草を揺らした。土の埃っぽい匂いと、草のツンとする匂いが、濃く漂った。
「ここで寝そべって、何してたの?」
「えっと、空、見てた。」
 その男の子は、少し照れながら、答えた。
「へぇ!面白そう!」
 目を輝かせるこるりの脇で、その男の子はもう再び横になった。それに倣って隣に仰向けに倒れたこるりの目に、先ほどより水色が薄くなった空が飛び込む。
「きれー!」
「草になってみるのも悪くないんだよ。」
 その男の子はこるりのほうを見て、楽しそうに言った。刻々と空は夕焼け色へとページを捲り始める。
 2人はそのまま空がだんだんと色を変えていく様を見続けた。時々、蝶がその上を気紛れに横切った。
 やがて、日も静かに沈み、あっという間に紺色の空に星が瞬き出した。
 その男の子はゆっくりと体を起こして、うーんと背伸びをした。その顔を覗き込むと、晴れやかな顔をしていた。その顔を見れて、自然にこるりの口角も上がる。
「初めて夜がやってくるの、ちゃんと見たかも。」
「そっか!さっきのが、じゃぁ、1回目で特別かもね。」
 その男の子は整った黒髪をさらさらと風に流しながら、楽しげに言った。
「これから、ちゃんと最初から来るの見てた夜が始まるね!おれ、わくわくするんだ、いつも。」
「わたしも!」
 こるりとその男の子はにこっと笑い合って、ばいばいと手を振った。
 家に帰ると、母親から遅い帰りを散々怒られた。そのあと、弟のたけ坊と一緒にご飯やお風呂を済ませ、寝床に入るまで、いつもは感じていない夜の気配がずっと意識された。
 目を閉じる。目を閉じたこるりの目の裏側には、今日だった昔に思える映像が朧げに映し出される。
(この夜が、ちゃんとやってくるのを、わたし、見てたんだ。)
 不思議と誇らしいような気持ちを感じる。
(わたしが起きるまで、そこにいてね。夜?…)
 そんな願い事を心で唱えながら、こるりの今日は静かに閉じた。

1/22/2026, 1:44:58 PM