理性

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#だんだん理性が溶けていく話

■冷静さを捨てられない人の場合


〈理性が溶けるまで:10〉

朝の光がカーテン越しに柔らかく差し込む中
彼女は部屋の窓辺に立っていた。

昨夜の出来事が脳裏に浮かんでは消えていく。
雨の交差点で、彼の驚いた表情が
何度も頭の中を駆け巡る。

「…あれで良かったよね。」

彼女は小さく呟きながら、窓ガラスに映る自分の顔を
見つめる。
その冷静な表情の奥底では、胸の奥が微かに
熱を帯びているのを感じていた。

彼が無事でよかった——

その思いが、昨日からずっと彼女の心を支配していた。
でも、ただそれだけではない。
その安心感の中に、ひそかに膨らむ感情があった。
彼の笑顔を見た時の胸の高鳴り。
交差点で彼を守るために走り出したあの瞬間
心のどこかで「彼が好きだ」と気づいた。
けれど、それを認めるのはどこか怖かった。

「守りたい…ただそれだけで十分なはず。」

そう自分に言い聞かせるように、小さく息を吐く。
彼に近づく理由は、ただ彼を守るため。
それ以外の思いに、まだ向き合う準備は
できていなかった。

それでも、彼女は決めた。
もう影から見守るだけでは足りない。
彼が危険にさらされる前に
もっと彼のそばにいるべきだ。

彼を守るために自分の居場所を変える——
それが今できる最善の行動だ。

「よし…行こう。」

彼女は静かにそう呟き、窓辺から離れる。
朝の空気が、彼女の決意をさらに背中から押しているようだった。

続く


〈理性が溶けるまで:9〉

朝の公園。
昨夜の雨が残した水たまりが陽光を反射し
葉先に滴る水滴が風に揺れていた。

澄んだ空気の中、彼はベンチに腰掛け
紙袋から取り出したコーヒーを手にしていた。
ふとした拍子にカップが傾き
コーヒーが膝元にこぼれてしまう。

「ああ、やっちゃった…」
と慌てる彼の前に、ふいに白いハンカチが差し出された。
「これ、どうぞ。」
柔らかな声が耳に届く。
顔を上げると、そこには彼女が立っていた。
淡いブルーのブラウスにシンプルなスカートを
合わせた彼女の姿は、朝の光の中でどこか清々しく
映っていた。

「あ、ありがとうございます。でも、悪いですよ。」
彼が戸惑いながら言うと、彼女は微笑みながら
「気にしないでください」
と軽く首を振った。

その仕草に、彼は思わず見入ってしまう。
「本当に助かりました。お礼をさせてください。」
彼がそう申し出ると、彼女は少し驚いたように
目を見開き、すぐに首を横に振った。
「いえ、本当に大したことではありませんから。」
それでも彼は引き下がらなかった。
「いや、せっかく助けてもらったんですから
何かお礼をさせてください。」

その真剣な表情に、彼女は一瞬だけ迷いを見せたが
やがて小さく頷いた。
「それなら…お言葉に甘えます。」
彼女の声は控えめだったが、どこか嬉しそうな響きが
あった。

彼はほっとしたように笑い
「じゃあ、次に会うときまでに何か考えておきます」
と言った。
その言葉に、彼女は少しだけ頬を赤らめながら
「はい」と短く答えた。

ふと、彼が彼女をじっと見つめる。
「あの…もしかして前にどこかでお会いしました?」
控えめながらも興味を隠せない彼の問いかけに
彼女は少しだけ反応し、穏やかな笑みを浮かべた。

「なんだか君のこと、どこかで見たような気がして。」
彼が少し戸惑いながら続けると、彼女は控えめに笑みを
浮かべた。
「そう感じてくれたのなら、嬉しいです。」
彼女はそう答えると、ゆっくりと視線を外した。
言葉の一瞬の間に動揺が潜んでいることに
気づかれないよう、指先でそっと髪を耳にかける仕草を 見せた。

彼女がその場を去った後
彼はハンカチを見つめながら、どこか不思議な気持ちに
包まれていた。

一方、彼女は歩きながら、胸の奥で静かに膨らむ感情を
感じていた。
「次に会うとき…」と小さく呟きながら
そっとスカートの裾を整えた。

続く


〈理性が溶けるまで:8〉

午後のカフェ。

柔らかな日差しが窓越しに差し込み
店内は穏やかな温かさに包まれている。

彼女は窓際の席に静かに座り
テーブルに置かれたカフェラテをじっと見つめていた。 目の前には本が開かれているものの
ページをめくる手は止まっている。
表情は穏やかで、どこか冷静さを保っているように
見えるが、心の中では期待と緊張が交錯していた。

「少し早く来すぎたかも…」と彼女は心の中でつぶやく。そっとカップを手に取り、一口飲むと
温かなミルクの香りがほんの少しだけ心を落ち着かせた。それでも、胸の奥で高鳴る鼓動を完全に抑えることは
できず、指先がカップをなぞる動きにその感情が
滲み出ていた。

扉が開く音がして、ふと視線が動く。
そこには紙袋を抱えた彼が立っていた。
少し慌ただしい様子で店内を見回し
彼女の姿を見つけるとホッとしたように微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、彼女の胸の奥が静かに
温かくなった。

「遅れてごめん!」
彼がテーブルに駆け寄りながら言うと
彼女は軽く首を振り、静かな声で返した。
「いえ、私が少し早めに着いただけですから。」

彼が席に着くと、持っていた紙袋を彼女に差し出した。
袋の中からは、可愛らしくラッピングされた
小さな焼き菓子が顔を覗かせる。
「これ、ささやかだけどこの前のお礼。」
彼が控えめに言うと、彼女はそれを受け取り
静かに微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、本当にお気遣いなくて
良かったのに。」

「こうして改めてお礼を言いたかったんだ。」
彼は優しい笑みを浮かべ、少し照れた様子で言った。
その表情を目の当たりにして、彼女は心の中で小さな動揺を覚えた。

しばらくして二人がコーヒーを注文し
テーブルで会話を楽しんでいる最中のことだった。
彼が話している間、彼女の目がふとカウンターへ
向けられた。
店員がトレーを手に運ぶ途中、バランスを崩しかける
瞬間に気づく。このままでは、トレーの端に置かれた
コーヒーが彼に降りかかる。

彼女は自然な動作でテーブル上のスプーンを手に取り
指先で軽く回す仕草を見せた。
スプーンは彼女の手から滑り落ち
床の上で金属音を数回響かせる。
その音で店員は反射的に進路を変え
トレーはバランスを取り戻した。

彼女はすぐにスプーンを拾った。
「新しいスプーンをお持ちしますね。」
店員は微笑みながら、コーヒーをテーブルに置き
彼女からスプーンを受け取った。

彼は何も気づかず、話を続けている。
彼女は微笑みを浮かべながら、穏やかに話を聞いていた。

二人はしばらく軽い会話を交わした。
彼が最近の出来事を話すと、彼女は控えめに相槌を
打ちながらも、時折短い返答を添えた。
その中で、彼の冗談に思わず微笑みがこぼれる瞬間が
あり、彼女はその笑顔が自然に出ていることに
気づいて少し戸惑った。
カップを持ち上げる動作で気持ちを整えながら
彼女は冷静さを保とうとした。

ふと彼が少し真剣な表情になり
「また君に会えるかな?」と尋ねた。
その言葉に、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「…ええ、またお会いしましょう。」
その言葉には、控えめながらも確かな約束の響きが
あった。

彼の表情がほっとしたように緩むのを見て
彼女の胸の奥で静かに温かい感情が広がった。
心拍が速くなるのを感じながらも
それを悟られないようにカップをそっとテーブルに
戻した。

続く

3/23/2025, 12:31:08 PM