小説家X

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『突然の君の訪問。』

 日が暮れて、夏の夜特有の涼しげな空気が辺りを包む。俺はいつも通り、公園という愛しの我が家で眠りに就く準備をしていた。すると、住宅街の隙間から一筋のライトが静かに走ってくる。こんな時間に原付で帰ってくるサラリーマンがいるとは思えない。公園の木々の間からその原付を注視していると原付は公園の入り口で止まり、ライトがパッと消えた。原付から降りてこちらに歩いてきたのはまだ高校生くらいの青年だ。時間も、場所も、年齢も、全てが常識から外れているのに、青年は当たり前のように俺に話し掛けてきた。
「おじさん、今日だけ僕も此処に泊まっていってもいい?」
 青年の口から出たその言葉で幾つもの可能性が浮かぶ。ただの家出少年か、ちょっとしたワルに目覚め始めた不良高校生か、それとも…。
「いきなりで驚いたよね、僕はハル。旅人なんだ」
 俺の沈黙をどう受け取ったのかは知らないが、青年はそのまま自己紹介を始めた。「旅人」というワードが普段一般人の間でどれほどの頻度で使われているのか知らないが、生憎俺は一般的な生活を送っているとは言い難い。なにせ、公園に住み着くホームレスだ。旅人という人達がいることもホームレス仲間から聞いたことがある。確か、旅人は「旅人協会」というものに属する者の総称で、俺達と同様に定住する家を持たないが、代わりに日本全国を旅して廻るほどの財力を持つという究極のホームレスのはずだ。
「俺は金も無いただのホームレスだ。この公園だって別に俺のもんじゃないし、好きにしな」と、金持ちな旅人に対して少し嫌味な言い方をしてみたが、ハルには全く響かず、「ありがと!」と元気な返事で返される。
 ハルは背負っていたバックパックをベンチに置くと、いそいそと滑り台に登り始めた。何度かごそごそと位置を変え、寝るのに丁度良いポジションを見付けたのか、満足げにひとつ頷いて「おやすみおじさん」と言うと、ハルはそのまま眠り始めた。嵐のように訪れてきたかと思えば、彼はすぐに深い眠りに就いて、住宅街はまた元の静けさを取り戻した。
 俺はというと、どうしても眠る気にはなれなかった。旅人が今、目の前でバックパックを手離している。その中にあるお金を盗めば、俺の今後の生活は一変するだろう。その事実を頭では分かっているが、思ったより心は冷静だった。もう少し葛藤とかするかなと思ったが、そこで人としての一線を越えないあたりが俺らしくて良いだろう、と一人で勝手に満足し、俺も眠りに就いた。
 朝目覚めると、ハルはもう顔を洗って荷物の整理をしていた。俺が起きたのを見ると、ハルは嬉しそうに話し掛けてきた。
「おじさんのこと疑ってた訳じゃないけど、僕のバッグ全く触らなかったんだね。おじさんがいい人でよかった」と笑う青年は爽やかそのものだ。
「いや、次からはもっと用心しろよ阿呆」とツッコムが、何故だか俺の心も爽やかな気持ちになっていた。
 ハルはヘルメットを被り、水色のカブに跨がると、こちらを向いて「じゃ!」と言って旅に出てしまった。恐らくもう会うこともないだろうが、彼の一夜限りの訪問は、少しだけ俺とこの公園を明るい空気で包み込んでくれた。

8/28/2023, 12:28:38 PM