3年前から通い続けている花屋がある。
花の良さとか、そういうのは分からないけど。
それでも足繁く通うには一つだけ理由がある。
「いらっしゃい。」
押し戸が開き、カランカラン。と如何にもというような入店音が聞こえると、花の世話をしながら一瞥をくれるだけ。
特段愛想が良い訳でもないこの店主に心奪われたのは、ほんの一瞬の出来事だった。
3年前。母の誕生日に何かプレゼント出来るものはないかと雑貨屋を巡り、いい加減なにが良いかも分からなくなってただ何も考えずフラフラと歩いていた時。
ふと鼻を掠めた甘い香りに目を向けると、嬉しそうな表情をした人がちょうど店を後にしていた。
幸せそうに大切そうに花束を抱える姿を見て、何の計画もないまま扉に手をかけた。
今と変わらない歓迎の声を左から右へと流し、飾ってある花々を眺めていると、後から入店してきたお婆さんが店主に見繕ってもらった花束を旦那さんに喜んでもらえたんだと話しているのが聞こえてきて、随分嬉しそうだなと目を向けてしまったのが最後。
あまりにも優しく柔らかく、ふんわりという擬音がピッタリな。そんな笑顔を向けて話しを聞く店主を見て、こんな笑顔があるのかと驚いた。
驚きと共に、なんとも形容し難い感情が込み上げてきて、慌てて目を逸らした。
やばい。直感でそう思った。
そこからは早い。その日は怪しすぎるくらい大急ぎで退店し帰宅。
一晩中頭から離れないあの笑顔に、これが世に言う一目惚れか。と初めての感情を受け入れざるを得なかった。
そして翌日から週に3-4回のペースで通い始める事となった。
花屋とは思えないほど通い詰めている自覚はあるが、だから距離が縮まったとか、あの笑顔をまた見ることが出来たとか、そんな浮ついた話はひとつも無い。
我ながら行動に気持ち悪さが滲んでいるのも分かっているし、下手に声をかけようものならそれこそ恐怖心を植え付けてしまうかもしれない。
あくまで花を見に来た客として。たまにチラッと表情を伺う程度で済ませているせいで、会話をしたこともろくに無いまま3年間の片思いと、怪しさを軽減するために購入した部屋いっぱいの観葉植物を持て余している。
自分の事ながら一目惚れでこんなに気持ちを長持ちさせて、顔を見るだけで満足しているピュアな心をまだ持ち合わせていたんだなと感心している毎日。
そんな毎日に転機が訪れたのは、あまりに突然だった。
いつも通りにただの客を徹して店内を歩き回っていると、なんの前触れもなくいきなり声をかけられた。
「お店畳もうと思ってるんだよね。」
誰が誰に発した言葉なのか、数秒理解が出来なかった。
まず分かったのは、誰が発した言葉なのか。
小さな咳払いでも聞こえるほど聞き慣れた落ち着いた声。
では、誰に。
珍しく店内には人がおらず、どれだけまわっても変わることの無い棚の前をウロウロと歩き続けている不審な客が1人。
自分宛だと認識した瞬間、なにかに弾かれたように声の主の方へと顔が動いた。
「ずっと通ってくれてるからさ。ちょうど人もいないし言っておこうかと思って。」
未だ状況の整理がしきれていないまま、初めて交わる視線と、初めて向けられた自分への声に何も考えられなくなる。
この大事件とも言える出来事で真っ先に頭に浮かんだのは、いま絶対マヌケな顔してたな。びっくりさせたかな。なんてどうでもいい事だけだった。
やがてゆっくりと咀嚼した言葉を飲み込み、頭の中が整理されると、代わりに騒がしくなるのは胸の真ん中。
3年間何も無かった想い人が、自分を認識してくれていた事への嬉しさ。初めて声をかけられた驚き。
お店がなくなるということへの悲しみ。この人に会えなくなるという焦燥。
そのどれもがグチャグチャに混ざって、喉に張り付くような音をやっとの思いで絞り出した。
結果出た言葉はたった3文字。
「そっか。」
いい加減にしてくれ。なんだそっかって。
なんで、とか聞きたいことも優しい声掛けもたくさんあるだろうに。
うるさすぎる頭の中とは反対に、このお祭り騒ぎの元凶である当の本人はレジカウンターに頬杖をついて静かに口角を上げた。
「最後になにか見繕わせてよ。」
こちらの返事も聞かずに腕まくりをして目の前に出てきた姿に慌てて花に目を向ける。
空気が動いて花の香りが鼻腔をくすぐり、嫌でも隣に並んでいることを教えられる。
明るすぎず長すぎないアーモンドの髪を後ろで結きながら、どれがいいかな。なんて呑気に花を選んでいるその人の隣で、それどころではないこちらは一生懸命普通を演じ、相槌に徹する。
こんなに好きだったのか、と改めて思い知らされた。
もう会えなくなるこの人になにかできることはないか、そしてこの場を一時的に去る方法はないかを考えに考え、いい方法を思いついた。
「あなたにも何か見繕わせてください。」
花屋相手にとんでもないことを言ったなと後悔するのはまたあとの話。
目の前の現実に慌てふためく自分の心を抑え、感謝と撤退を図れる最適な案だった。
大口を叩いておいて見繕うなんて大層なことはできるはずもないので、ポケットに忍んでいる文明の利器に助けを乞う。
先生と呼ばれるサイトを開き、検索ボックスに思いつく言葉を入れて、該当する花をお店で探す。
効率の悪い作業の割に心躍る自分がいることにまた驚いた。
とっくに作業を終わらせている姿を横目に時間をかけて花を選び、持ち帰りやすいようにブーケにしてもらおうと花を手渡す。
指先が触れ、また顔が熱くなった。
「ずっと好きだった人がいてね。食事に行ったりもしてたんだけど。今度結婚するらしいんだよね。」
ひとつひとつ丁寧に作業をする手先を眺めていると、間を繋ぐためか気まぐれか、ポツリポツリと言葉をくれた。
「結婚式で使うブーケを繕ってくれって頼まれて。最後に見繕う相手があの人じゃ嫌だなって思っちゃったんだよね。」
だから今日お願いしたんだと、ごめんねと手を合わせる表情は、自分を嘲笑している様な、寂しさを紛らわせているような笑顔だった。
そんな表情になんとも言えない気持ちを抱いていると、もうできるよと再び手元に目線を移される。
なにか指定はないかと問われ、1輪の花を指さした。
「この花を真ん中にしてください。」
今までありがとうございましたの気持ちを込めた花々の中に、これで最後だろうからと込めた自己満足の気持ち。
相手は花屋だ。花言葉だって知っているだろうし、それを検索している自分の姿だって見られている。
嫌悪感を抱かれるかもしれないと思いながら頼むと、その人は少し驚いた顔をして、またあの擬音が似合う笑顔を見せてくれた。
「ご愛顧いただきありがとうございました。」
3年ぶりに見たその表情が自分に向けられていること、自分だけのために時間を使って繕ってくれた花束を渡してくれていることにまた胸が高鳴りながら、わざとらしく丁寧な言葉に笑ってしまう。
こちらこそありがとうございました。と、ブーケにしてくれた本人に手渡しながら頭を下げる。
色とりどりの感謝に包まれた赤いチューリップ。
初めてにしてはよく出来た花束だなと、誇らしく思う。
お代はいらないなんて言うその人に半ば無理やり支払いを済ませ、もうこんなに通うお店はないだろうな。と思いながら扉に手をかけて、振り返ることはせずに外へ出る。
3年かけてもよく分かっていなかった花の良さをこの数時間で突きつけられるなんて。
自分の単純さに恥ずかしくなりながら、手元で香る甘い香りに、花を見る度思い出しそうなあの表情をどうしたものかと考えながら帰路についた。
【好きだよ】
4/6/2025, 11:21:33 AM