【鐘の音】
カズオの住むボロアパートでは、近くのお寺の鐘の音が、日に三度聞こえてくる。
カズオは信仰心がある方ではないが、住みだした最初の頃は、うるさい上になんだか咎められているような気がして、胸がチクチクと痛んだものだ。今となってはすっかり慣れてしまって、鳴っている事にすら気づかない。
カズオはひとり暮らしだ。9年前に妻と別れ、娘とも離れ離れになり、それからずっとこのボロアパートで暮らしている。定職に就いてない訳ではない。いわゆる中小企業と呼ばれる町工場で機械の部品―主にネジ―を製造する仕事を、高校を卒業した後からずっとしている。真面目でおとなしい性格だし、自分の仕事にプライドを持っている。
それがなぜこんなボロアパートに住んでいるかと言うと、若い頃同僚に誘われて行った競馬にハマってしまい、借金を作ってしまったからだ。それが原因で妻にも愛想を尽かされ、離婚された。たった一人の娘は心臓が悪く、かなりの医療費がかかるのだから、それも当然だった。ユキノは働き者だから、きっと昼夜働いて生活費と娘の医療費を稼いでいるのだろう。
「さっさと別れてくれれば養育費は請求しません」
自分と違って賢く聡明で、合理的な判断ができるユキノを心から尊敬していたし、愛していた。カズオが計画性がないので、時に呆れた態度を取られることは付き合っている時から何度もあったが、それでもいつも優しかった。離婚を突きつけられた時の、愛情が完全に消え失せたユキノの冷たい目を思い出して、カズオはかすかに身震いした。
あれ以来、娘には会っていない。別れたとき5歳だったから、今はもう14歳か。ユキノに似て綺麗になっているだろうな。
あまり娘の事は考えないようにしていた。とても合わせる顔がないし、ユキノが会わせてくれないだろう。
そんな事を思いながら、カズオは吸っていたタバコを飲み干したビール缶に押し付けた。もう一本吸おう、とテーブルの上に置かれた箱に手を伸ばしたが、箱は空だ。
軽く舌打ちしながら、じゃあビールを飲むかと冷蔵庫を開けるも、それもない。がっくりと白髪混じりの頭を垂れたカズオが時計を見ると、時刻は17時少し前だ。今日は仕事が休みだったので、昼過ぎから飲んでいたのだ。
(仕方ない。コンビニに行くか。)
45を過ぎてだいぶ重くなった身体を持ち上げ、カズオはボロアパートを出た。ドアを開けると、傾いた夕暮れの太陽の光が直撃し、思わず目を細める。都心からそう遠くないとはいえ、この辺りに高い建物はあまりない。ボロアパートの2階から見える夕焼けは、なかなかに美しかった。
近頃は綺麗なものを見ると胸が痛い。自分が薄汚れたおっさんだからだろうか。
カズオはコンビニを目指して歩き出した。
コンビニでウィンストンのキャスターを買い、ビールも買おうとしたが、値段があまりにも高かったので、少し遠くのスーパーまで足を伸ばし、そこでビール6缶パックと、つまみを少し買った。
ボロアパートの近くに来る頃にはかなり薄暗くなっていた。歩くのは苦じゃない。ポケットに手を突っ込み、軽く口ずさみながら、人通りの少ない道を歩く。気分がいい時は、エレファントカシマシの「今宵の月のように」だ。まだ完全には日は落ちていないが、空には白い三日月が浮かんでいる。俺もまた輝く日なんて、来るだろうか。
あの角を曲がれば、我が家であるボロアパートが見える、という所まで来たときだ。
その角を曲がってこちらに向かって歩いてきた、中学生くらいの女の子と目が合った。少女は艶のある黒髪をおかっぱにしていて―実際はボブと呼ばれる髪型だが―、少し奇抜とも呼べる格好をしていた。カズオはそれをどう表現していいか分からないが、やたらとヒラヒラしていて、底の厚い靴を履いている。そんな格好をしている中学生にお目にかかることは滅多にないが、少女のまだあどけない幼い顔立ちと華奢な身体つきから、中学生くらいだろう、と判断した。
その少女の顔がほんの少し若い時のユキノに似ていたので、カズオは思わず立ち止まって、じっと少女の顔を見つめてしまった。よく見るとそんなに似てないが、色が白く、涼し気な目元が似た系統と言える。
少女としては知らないおじさんにじろじろ見られて気持ちが悪かっただろう。怪訝そうな顔つきで見返してきた。きっと普通の少女なら逃げるように立ち去っただろうが、その子はムッとした顔で、
「なんですか?」
と挑戦的に言い放った。
その、思ったより低い声に、カズオはまた衝撃を受けた。
「いや…、申し訳ない。何でもないんだ。」
それだけ言って、カズオはその場を去った。少女の方は、カズオが変な行動を取ったりしないか気になるらしく、しばらくその後ろ姿を監視するように睨んでいたが、何もないことが分かると、また歩き始めた。
(変なおじさん)
少女―名前はレイ―は歩きながら聞いていた音楽のボリュームを上げた。最近のお気に入りはシティポップと呼ばれるジャンルだ。
その頃カズオは、自分のアパートが見える角で、呆然としたように立ち尽くしていた。
たぶん、あの子は娘のサキではない。サキはどちらかというと自分に似て、目が丸く、タレ目だった。でも、あの子はサキと同じくらいの歳だ。サキもあの少女のような格好で街を歩いたりするんだろうか?そもそも、心臓の弱いサキは、まだ生きているんだろうか?さすがにサキにもしもの事があったら、ユキノは連絡をくれるだろう。いや、本当にそうだろうか?サキは、サキは―――。
これまで考えないようにしていた娘の事が、急に頭から離れなくなり、いろんな思いが、体中をかけめぐった。
(娘に、会いたい―。)
あと数歩行けばアパート、という中途半端な場所から、カズオは動けなかった。暗く重たい鐘の音が、カズオを殴り付けるように、辺りに響きわたった。
8/5/2023, 2:14:19 PM