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 後部座席のシートの真ん中を贅沢にひとりきりで占領して、前に座る両親の影越しに広い道と夕暮れ空を見るのが好きだった。

 几帳面な母らしく一見きちんと片付けられた部屋にも、意外に多くのものが埃を被って眠っていた。いるもの、いらないもの、と勝手に仕分けて車へ積み込んでいたら、あっという間に午前中が終わった。母の部屋は、残すところローズウッドの重そうなチェストだけである。中身を出さないことには動かなさそうな、がんとした佇まいには、思わずため息が出た。
 手始めに一番下の大きな引き出しをひっぱり出すと、一体いつの間に、というほどの量の紙束とガラクタが丁寧に収納されていた。私の日記帳や絵、図工で作ったらしき謎の粘土の塊、しわくちゃな線のついた折り紙、下手くそに書かれた『希望』の習字。私が上京してから、もう10年は経った。黒歴史になりえそうなものは、ずいぶん前にすべて処分した気でいたのだが。
 そういえば小学生の頃、思いつきでこの引き出しを開けたら、私がサンタクロースへ宛てたはずの手紙が一番上に重ねられているのを見つけた。つい手に取ってしまった後で、隣の家のゆりかちゃんが「サンタさんは、お父さんとお母さんなんだって」「正体に気づいたら、もうプレゼントはもらえなくなるんだよ」と言っていたのを思い出して、慌てて元通りにしまった。私が見た事がバレないだろうか、と数日ドキドキして、そうしていつの間にか忘れてしまった。あの頃から母は、私の思い出をここに溜め込んでいたんだろう。
 なかでも、一際クシャクシャな皺の寄った紙が目に付いた。何度も丸めて、それを丁寧にアイロンをかけて伸ばしたような焼き跡と変な皺のある紙。半分に折り畳まれていたそれを手に取って広げてみると、3枚の作文の原稿用紙だった。
 『ちいさなちいさなわたしのきょうだい』とタイトルのついた作文。すぐ、思い出した。ああ、妹が生まれた時の。
 赤ちゃんがうちに生まれるとわかったのは、私が小学1年生の時だった。この冬に生まれる予定の、母のお腹の中のきょうだいを待ち望む気持ちを描いたこの文は、夏の作文コンクールで初めて奨励賞を取った。待望の姉妹の誕生が、嬉しくて嬉しくて、生まれた日の次の日は、学校の先生にも、隣のクラスにも、その隣のクラスにも、とにかく思いつく人全てに喜びを伝えに行った。両親と、出てきたばかりの妹の顔を見ながら名前を考えた。まだ目がぱっちりとは開かないのを見て、まだこの世が眩しいのかもしれないねと私が言った。両親は、妹を「ひかり」と名付けた。
 いざ一緒に暮らしてみると、ひかりは私が持っていたものを勝手に半分こにしてしまった。いつも飲んでる瓶のオレンジジュースや、朝ご飯のキウイも、お風呂に入る時間、自動車の後部座席も、両親からの眼差しだって。「お姉ちゃん」はあまり楽しくなかった。妹ができたら、一番お気に入りの金平糖のヘアゴムで三つ編みを結ってあげようと思っていたのに、ひかりは私が髪を触ると怒って泣いた。それが許せなくて、悲しくて、自室の額に飾ってあった作文をクシャクシャに丸めて、ゴミ箱に捨てた。そうして1人でお布団の中で泣いた。お姉ちゃんなんて、やめてしまいたかった。ひかりなんて、いなければ良かった。
 用紙をもとの半分に畳んで、引き出しの元の場所に戻す。母はいつこれをゴミ箱から拾って、どんな思いでアイロンを当て、ここへ仕舞ったのだろう。当時のすねた私が、すねたまま、この引き出しの中で大切に保管されている。作文を丸めたあの日の私が、居心地の悪そうな顔でこちらを見ているようだった。

 残された4段の引き出しを全て出し切ったところで、窓の外に第一陣の家具を貸しコンテナへ運びに行っていたひかりが帰ってきたのが見えた。
「もう身体バキバキだよー。あとこれ、運べば良い?」
 入ってくるなり、足元の引き出しをひょいひょいと持ち上げては、次から次へと車へ積んでいく。最後に引き出しのなくなったチェストを積み込んで、ようやく母の部屋はがらんどうになった。もう来週には、リフォームが始まる。歳をとってきた両親のために、断熱材をいれて、扉と段差を極力減らす工事をする。
「パパもママも喜んでたよ。」
空になった部屋を見つめていると、後ろからひかりが声をかけてきた。はい、とチューペットを半分に折って、片方をくれた。
「それなら良かった。」
 ひかりは、母の部屋のローテーブルがあった位置に座りこんだ。正面のまどから西陽が差して、ひかりの目が眩しそうに細くなる。
「私、ここからの景色、好きだったんだよね」
ここでお母さんと私がお絵描きしてて、窓の外でお姉ちゃんがお父さんとがなわとびとかして遊んでる、と空中を指さした。
「ここ、私の特等席。」
 思い返せば、確かにひかりは小さい頃からそこにいることが多かった。私が学校から帰ってきたら、決まってここから手を振ってくれたのを思い出した。
「いい席だね。」
ひかりはにこっと恥ずかしそうにはにかんで、黙って窓の外へ目をやった。幼いあの子のあの目の先に、私もいたことに、じんわり胸に暖かいものが灯る。
「ひかり」
 そう呼ぶと、んー?とこちらを見向きもしないゆるい返事。急にこの時間を閉じ込めたいような気分になって、少しだけ母の気持ちが分かったような気がした。

11/6/2023, 3:24:57 AM