「わたし、来世では子猫になりたいな。」
キリリと冷たい空気の下で、彼女はそんなことを呟いた。私は、冬の空からふりそそぐ、少しだけ神秘的な陽の光を受けとめている彼女の横顔をながめる。そうして、小さく、でも、と声を出した。
「でも、どうして子猫? 成長したら猫になるのだから、猫になりたい、が正しいんじゃないかしら。」
「うん。だからね、」
彼女は勢いをつけて、私の方を向いた。影になっていた部分にも光があたって、肌が少し赤みを増したように見えた。光と影の境目だけが熱を帯びているようだった。
「だからね、子猫のうちに、幸せなうちに、死にたいんだ。」
なんて言って、彼女は少し足を伸ばした。ムートンのブーツがかかとに引っかかって、コロンと転がる。それが、なにか大切なものに見えて、私はベンチから立ち上がって拾ってやった。
「あんがとぉ、」
にこぉ、と白い息を吐きながら、彼女はゆっくりと私に礼を述べた。私は聞こえなかったふりをして、彼女にブーツを履かせてやる。
「ねえ、本当にいってしまうの。」
なんて私が問いかければ、彼女は私の目を見ながら、
「うん! いってくる。」
なんて元気な声で言うのだった。その声は、グラスに熱湯を注いでいるみたいにちぐはぐで、何だか切なくて、私は少し笑いたくなった。
「じゃあ、わたしは来世で、子猫の飼い主になろうかしら。」
脈絡が無いことは自覚していた。
「うふ、じゃ、わたしを看取ってくれるの?」
でも、彼女には正しく伝わったみたいだった。私は再び、彼女に向かって口を開いた。
「ねぇ、」
「楽しみだな! あのね、お手紙を書いたんだよ。月ちゃんに届くはずだから、読んだらお返事ちょうだいね」
私の言葉を遮ったのは、わざとだろうか。彼女は眩しいのか、目を細めて、私の手を取った。まつ毛が光を浴びて、漆黒のそれが深いブルゥに見える。それが二、三度上下するのを、ぼんやりと眺める。
「私で、良かったの? 手紙って、一通しか出せないのじゃなかったかしら。」
「うん。月ちゃんが良かったの。」
「そう、光栄ね。」
私は少し目を閉じて、彼女の視線から逃げた。彼女は冷たい指先で、私の頬に触れる。
「ほたる」
私は目を開けた。彼女のアメジストのような、透き通っている瞳を目にうつす。
「なぁに」
彼女はやわらかな声を出した。そうだった。この人の声は、いつも柔らかくて、細くて、麗しい。
「とってもきれいよ。」
「知ってる。だって私、今が一番輝いているもの!」
その後、私は彼女とただ喋ることを続けた。夏は森に行こうとか、カレンとリリィみたいにパフェを食べに行こうとか、スペインの街並みを見てワインみたいと言おうとか、そんな、普通の話を。さっきまでの話なんて無かったみたいに、そんな話を続けた。
「月ちゃん、わたし、きれいでしょう。あんね、人生ってきっと、煌めく瞬間があるんだよ。それがきっと、今なの。だからね、やめないよ。」
ふ、と会話が途切れた時。彼女はヴァイオリンのグリッサンドのような、したたかで美しいトーンでそのようなことを言った。私は何も応えず、彼女の唇に指を這わせた。
血液の色だった。いとおしいくらいに熱い、生の色だった。
「うん、わかったわ。だってほたる、悔しいくらいに麗しいもの。」
私は漆黒の笑みを浮かべる。彼女はそんな私の顔を見てきゃらきゃらと無邪気に笑った。
「月ちゃん、きれい」
「そんなことないわ。……ねえほたる、私もいつか、煌めく日が来るのかしら」
「さあ、わかんない。でも、ただ待つだけじゃつまんないし、煌めいてる方が見つけやすいかも。」
「何よ、それ。」
そうしてまた少し、二人で話した。これまでの人生のことと、これからの人生のことを。彼女は相変わらず、来世のことばかり話していたけれど。
来世では仔猫じゃなくて、猫になって、ふりそそぐ光をそのままに瞳にうつして、麗しく優雅に死んでいけばいいのに。なんて残酷なことを思いながら、私は彼女との最期の逢瀬をたのしんだ。
「月ちゃん、私そろそろ逝くね。」
「そう。いってらしゃいな。手紙、楽しみにしているわ。」
「ふふ、来世でもきっと、私を幸せにしてね。」
応えなかった。わたしは残酷な人間だから。
「じゃあね、ほたる。」
返事はなかった。その変わり、小さくにゃあとなく音が聞こえた。
11/15/2024, 12:56:55 PM