神永

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 僕の父は、寡黙な人だった。幼い頃から、父が多くを語ることはなかった。家族の中で会話の中心はいつも母であり、時々僕が話に加わる程度だった。

 そんな父がある日、不意に僕に声をかけてきた。「一緒に釣りに行こうか」と。冬が終わり春が近づき始めた頃、中学生だった僕は驚きつつも嬉しさを感じてうなずいた。

 釣り場に着くと、冷たい朝の空気が水面を覆いわずかに漂う霧が静寂を引き立てていた。
 父は淡々と道具を準備し、黙々と仕掛けをセットしていった。その姿は普段の無口な父そのものだったが、僕のために全てを丁寧に教えてくれるその姿に普段以上の優しさを感じた。

 初めての釣りに夢中になり、糸を垂らしながら魚がかかるのを待つ間、僕はふと父の横顔を見た。
 陽光が少し傾き、父の顔を柔らかく照らしていた。そこで初めて気づいた。普段の厳しい表情が今日は少しだけ緩んでいるようだった。

 僕は思わず問いかけた。
「父さん、なんで僕を釣りに誘ったの?」

 父は一瞬こちらを見たが、すぐに視線を戻ししばらくの間ただ静かに糸を見つめていた。
 そしてぽつりと、言葉をつむいだ。

 「お前に、大事なことを伝えたくてな」

 その短い一言の意味は、当時の僕にはまだよくわからなかった。しかしその帰り道、父が言った言葉はずっと胸に残り続けた。
 夜風に乗って漂う川の匂いとともに、父の言葉が心の奥にしみ込んでいくようだった。

 それから数年後、僕は大学進学で家を出る日を迎えた。玄関に見送りに来た父は、いつも通りの無表情だった。しかし、父が小さな声でつぶやいた言葉があった。
 その瞬間、あの釣りの日の記憶が鮮明に蘇り胸が熱くなった。

 社会人になり、自分の家庭を持つようになった今、あの日の父の言葉の意味がようやくわかるようになった。
 大事な人に伝えたい想いは、どれだけ不器用でも言葉にしてこそ届くのだと。
 父もきっと、そう感じながら伝えてくれたのだろう。

 僕もまた、自分の息子を連れて釣りに行くことがある。
 朝の水面が静かに輝く中、糸を垂らしながら何気なく息子に話しかけた。

「お前には、ちゃんと大切なことを伝えたいんだよ」

 父がくれた言葉は、こうして今、僕の口から息子へと受け継がれていく。


【愛言葉】

10/26/2024, 12:25:40 PM