『夜が明けた。』
彼はいつも、夜中に前触れなく私の家に現れた。
最初は驚くこともあったが、私はそのうち慣れて、彼がかつて美味しいと言ってくれたタルトタタンを夜から焼き始めたり、ベッドの上でぼんやりしたり、彼がいつか買ってきてくれたどこかのご当地マスコットの小さなぬいぐるみを撫でたりして、彼が来るのを待つようになった(ご当地ぬいぐるみは、彼の日常を少し知ることができた気がして嬉しかったので、私は特別に大事にしていた)。時には寝てしまうこともあったが、そんな時は彼は私のベッドに潜り込んで、たいてい私より体温の高い彼が、夜じゅうどこで過ごしていたのか、ひんやりした手を私の首筋に当て、足を私にすり寄せて、起こしてくれるのだった。それは以前、彼が夜中に来たのにも関わらず私が寝ていて彼に会えなかったとわかった時、私が号泣した時からだった。
その日も彼は前触れなく現れた。彼が会いに来なくなって、2週間が経った頃だった。それまでは彼は忙しくてもそれ程間を置かず短い時間でも会いに来てくれたから、私はすぐに彼に何かあったのだと思った。彼は会っている時、いつも私のことをとても大事に思っていると伝えてくれた。私が不安になることがないぐらい伝えてくれていたので、私は、彼に嫌われたのかもしれないとか、飽きられたのかもしれないと思うことはなかった。そして、彼が来なくなる少し前に、「できるだけ家から出ないで」と私に言ったことを思い出し、きっと何か関係があるのだと思ったからだった。彼が私に頼み事をしたり、私に何かを要求したりしたことはほとんどなかったのに、その時真剣な顔でそう言われたから、私は頷いた。必要なものはできるだけ用意しておくし、届けるから、と彼に言われ、実際に彼はその通りにしてくれた。そのおかげで、私は彼が来なくなってから、本当に家から出る必要がなく、過ごせていたのだった。
彼が来た時、私はベッドの上に座っていた。2週間の間にしていたことは、たいていは彼の好きだったお菓子を作るか、彼と一緒に観た映画を観るか、ベッドの上に座ってご当地マスコットを並べて撫でるかだった。以前は彼を待ちながら夜中にしていたことを、一日中するようになっただけだったが、ベッドの上に座り込んで待つ時間が増えていた。
彼はもう二度と来ないのではないか--彼の意志で来ないのではなく、来られないのではないかという思いが、日に日に胸に冷たく重く広がり、上から何か大きな力に押さえつけられているように、動けなくなる時があった。
彼が自分の意志で来ないのならもうそれでも良かったし、むしろ彼が自分の意志で動ける状況にあるならそのほうが良いと思った。たとえ自分のもとへ来てくれなくても、無事でいてくれることが私の一番の望みだった。けれど、彼の意志で来ないのだとは思えなかったので、おそらく彼は来られない状況にあり、それがいつか終わるのか、それともずっと状況は変わらないのかと思うと、心が重く押し潰されていくようだった。
彼は私を見て、遅くなってごめん、と言った。
彼の首に飛び付いて、私は首を降って、「大丈夫だよ」と言葉にするだけで精一杯だった。嗚咽が漏れないように、聞き取れる言葉を出すことは、その一言しか叶わなかった。大丈夫だという言葉には嘘はなかった。彼が無事でいてくれただけで、私には十分だった。次の瞬間には嗚咽を漏らしながら彼の首筋に顔を埋めると、冷たい、外の匂いがした。少し経って、
「来てくれてありがとう」と私が言うと、
「当たり前だよ。どんなに遅くなっても、必ずお前のところに戻ってくるよ。……でも、待っていてくれてありがとう」と彼は言った。
彼の言ってくれた言葉は嬉しかったけれど、この時私の胸には予感があった。
彼はいつも、どこか寂しさと終わりの気配をまとっていた。私と一緒にいる時、彼はよく笑い、優しい声で私を安心させ、包み込んでくれた。でも、それでも消えない終わりの匂いを、私は彼から感じていた。
それがある種の確信めいたものとして私の心の中に迫ってきたのだった。
それから数日間、彼はほぼ毎日私の家に来るようになった。時間はとても短くても、夜中になると私の家に来て、抱きしめてくれた。
彼が何をしているのか、直接聞いたことはなかったけれど、以前の私はなぜか、彼に関係する全てのことに対して、自分がほとんど何も知らなくても、彼ともっとたくさんの時間を一緒に過ごせなくても、仕方がないのだという納得をすることができていた。不思議なことに、私が彼のことが好きで、大事だと思う気持ちと反比例して、仕方ないと思う気持ちは広がっていったのだった。それは多分、彼が私を不安にさせないように、言葉や態度で、私のことを大切に思っていると伝えてくれていたからで、その彼の気持ちを尊重したかったからだった。
でも彼に会えなかった2週間を経験し、もう一度彼が会いに来てくれるようになった今、私は、仕方ないのだと自分に言い聞かせる一方で、胸をかきむしりたくなるような焦燥と、彼に何かとても怖いことが起こり、彼と二度と会えなくなるのではないかという不安に苛まれ、眠れないことが増えていった。
夜中に来た時にほとんど起きている私を見て、ある時彼が言った。
「心配させてごめん」
そして、彼が直面していることと、準備していること、そして決着をつける日がいつかを、簡単に私にもわかるように教えてくれた。
私は以前から感じていたあの予感が、より確実さを持ってすぐそばまで迫っているように感じて、彼に抱きついた。彼は私を強い力で抱きしめ返してくれて、こう言った。
「お前のところに帰ってこられるように頑張るから」
「……うん、無事でいてね」
私にはとにかく彼が無事でいてくれることが一番だったから、それを伝えたくてこう言った。しかし思いとは裏腹に、目頭が熱くなり、頬に涙が流れるのがわかった。
「泣かないで。泣かせてごめん」
彼は私の顔を見て困ったように笑い、頭を撫でながら言うのだった。
その日の前日も、彼は来てくれた。その日はいつもより早めに来てくれて、一緒にご飯を食べることができた。
彼に抱きしめられている時だけよく眠れるようになっていた私は、この日も、彼と一緒にベッドに入ると眠ってしまったようだった。
まだ夜が明ける前、私は急に目を覚ました。その夜はいつもよりかなり早くベッドに入ったからもあったかもしれないが、何かに引っ張られるように意識が浮上し、目を開けると目の前に彼の顔があった。
「……ずっと起きてたの?」
「寝たよ。けど目が覚めた」
私たちはしばらく黙って見つめ合いながら、抱きしめ合っていた。何よりも綺麗で、私の大好きな彼の瞳は、私を見て、凪いだ色をしていた。その色を見ていると、私の中に、彼と過ごした時間が溢れ出してきた。途端に彼の温もりが、今ここにしかないものだという実感が強く湧き、あ、と思った時には涙がせり上がって、反射的に顔を隠すように彼の胸元に押し付けようとしたが、彼の強く優しい手で抱きしめられていて、それは叶わなかった。顔を見られているのはわかっていても、もう顔はくしゃくしゃになってしまって、涙を止めることはできなかった。涙で視界がぼやける。彼の指が私の頬を伝う涙を拭う。
彼の温もりを感じながら、私は耐えきれず口にした。
「ずっと待ってる。ずっとここで待ってるから、……」
しかし、待っているから何なのか、続きを言葉にすることはできなかった。言ってはいけないような気がしたけれど、それは私の弱さだったのかもしれない。
「待っててよ。必ず帰ってくるから」
彼は、私を強く抱きしめてこう言った。今まで約束をしなかったのは彼なりの優しさだと思っていたから、最後に約束のような言葉を言われて、思わず私が瞬きすると、涙がまた落ちた。
そんな私を見ながら彼はからかうように言った。
「こうでも言わないと、お前が涙で溺れたら大変だからね」
思わず泣き笑いをしてしまったすぐ後に、彼の優しさを感じてまた泣きそうになった私に彼はこう言った。
「笑ってて。笑ってる顔が好きだよ」
私の大好きな低く優しい声に胸がつまる。私はこの人を失ったらどうやって生きていけばいいのだろうと思った。これほど心から大切に思う人は、この先絶対に現れないだろうと思う。でも、彼の優しさと強さに私も応えたいと思ったから、今はこの温もりを感じて、私の温もりも彼に届くようにと腕に力を込めた。
私たちは二人で朝が近付いてくるのを感じていた。
そして静かに夜が明けた。
4/28/2025, 3:06:43 PM