理性

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#だんだん理性が溶けていく話

■冷静さを捨てられない人の場合


〈理性が溶けるまで:7〉

以前の彼女は彼に対してどこか距離感を抱いていた。
自分らしくないと感じながらも、親しみやすさを装い
わざと丁寧な言葉遣いをしていた。
しかし、彼の誘いで何度か会ううちに
少しずつその関係に変化が訪れ始めた。

今では彼との会話で気負うことはない。
丁寧語は自然に消え、ふとした言葉がそのまま彼に届く。それを指摘されることもなく、むしろ彼の何気ない
リアクションが穏やかな安心感を与えていた。

「…こうやって親しくなっていくものなのかな。」
彼女はふとそう呟き、戸惑いながらも
そんな感覚を心地よく感じていた。

今日も彼とショッピングモールで会う約束をしていた。
ふと足元の靴を見下ろす。
お気に入りのヒールが、今日のために選ばれたことを
思い出し、わずかに口元がほころんだ。
モールの明るい照明にその新しい靴が控えめな輝きを
放っている。

フロアマップを片手に歩いていると
ふと視線の先に彼の姿を見つけた。
2階の手すりにもたれ、ショーウィンドウに飾られたシャツをじっと眺めている。その穏やかな様子に、彼女の胸にはふんわりと温かな気持ちが広がった。

その時、視界の端に微かな違和感がよぎった。
5階の手すり。そこに掛けられた買い物袋が不自然に
揺れている。わずかに傾いたかと思うと、袋は次の瞬間、重力に引かれるように手すりを越えた。
中身が宙を舞い、果物、小箱、雑貨が光を反射しながら
回転して落下を始める。
その動きが彼女の目にはスローモーションのように
映っていた。 視線を急いで下に向ける。
落下物の軌道、その真下にいるのは――彼だった。
何も知らず、ディスプレイのシャツに
目を向けたままの彼。

「やるしかない。」
彼女はすぐにバッグの中に手を伸ばし
折りたたみの空の買い物袋を掴み取る。
足が自然と動き出し、次の瞬間には駆け出していた。

「ここにいたんだ?」

その声に彼が振り向くと、すぐ近くに彼女が立っていた。彼女は両手を後ろで組み、少し前かがみになって
彼を覗き込むように見つめている。
その何気ない仕草に、彼は少し驚いた様子を見せた。
彼の視線は彼女の顔に向けられており
彼女の手に持つ袋には気づいていない。
ほんの一瞬、彼女は彼の少し上に視線を移す。
彼女は口元に笑みを浮かべると、軽く彼の腕を引きながら言った。
「ねえ、あそこの店、ちょっと面白そうじゃない?」
その一言で彼を数歩移動させる。

その瞬間、落ちてきたりんごが彼の元いた場所に直撃する――はずだった。
しかし、袋が滑らかに回転しながら掲げられ
落下の勢いを緩やかに受け止めた。
音もなく袋の中へと吸い込まれるその様子は
まるで衝撃が消えていくようだった。

彼は周りの様子には気づかないまま示された店に目を
向けている。
続いて次々と落ちてくる小箱や雑貨も、彼女の袋へと
収まっていく。彼女は一瞬も動きを緩めることなく
彼の周囲を守り続けた。
周りの買い物客たちが異変に気づき始め
ざわめきながら上階を見上げたり、落下物を拾う中
彼の周囲だけは何事も起きない平穏が広がっていた。

しばらくして彼女は息をつくような仕草を見せると
「ここ、初めて来たけどすごく楽しいね。」
と話しかけながら彼女は何事もなかったように微笑んだ。

彼は頷くと、ふと彼女の持つ袋に目を向ける。
「その袋、やけにいっぱいだけど…買ったの?」
彼女は少しだけ間を置いたが
「…これ?誰かの落とし物みたいだから届けようと
思って。」 と答えた。
彼女は袋の重さを感じさせずに軽く持ち直しながら
微笑む。
その仕草には余裕が漂い、一連の出来事で見せた
緊張の影は微塵も感じられなかった。

続く


〈理性が溶けるまで:6〉

ショッピングモールのフロアを歩いている途中
彼はふと足元に目を向けた。
彼女のヒールが片方折れている。
彼女は何事もないように歩き続けていたが
その足取りはどこかぎこちなく見える。

「その靴、大丈夫?…片方、壊れてるみたいだけど。」
彼は立ち止まり、心配そうに声をかけた。

その言葉に、彼女は少し驚き、足元を見下ろした。
「あ…折れてる。でも、平気だよ。」
彼女は笑顔で軽く応えたが、折れた靴に今まで
気づかないほど、必死だった自分に気づいた。

「平気なわけないだろ。」
彼は眉をひそめながら、続けて言う。
「これじゃ痛いだろう。靴屋に寄ろう。
一緒に選ぼうよ。」

彼女は少し恥ずかしそうに小さく頷きながら
ぽつりと話し始めた。
「実は…来る途中、少し時間がギリギリで焦っちゃって。それで走ったのが良くなかったのかも。」

「え、ヒールで走ったの?」
彼は目を丸くし、軽く笑いながら続けた。
「それはすごいな。普通なら足をひねりそうなのに。」
「うん、でも大丈夫だと思ってたんだけど…
まさか折れてるなんて。」
彼女は少し照れくさそうに微笑みながら答えた。

彼の目にわずかな驚きがよぎる。
「君が焦るなんて…普段はもっと落ち着いてる
イメージなのに。」
彼はそう言いながら、少し笑いを浮かべて彼女を
見つめた。その視線が優しく、彼女の緊張を和らげた。
彼女は仄かに頬を染めながら
「そうかもね。でも、今日は特別だったから…。」
と小さな声で言った。

靴屋に到着すると、彼は真剣な顔でショーケースを
覗き込み始めた。
彼女は少し恥ずかしそうにしながら、隣に並んで靴を
見つめる。

「この黒のシンプルなやつとかどう?」
彼は片方の靴を持ち上げて振り返った。
「うーん、悪くないけど…もう少し華やかな感じも
いいかな。」
彼女は控えめに答えた。

彼は笑いながら、別の棚に目を向けた。
「じゃあ、これ!なんか似合いそうな気がする。」
「えっ、ちょっと派手じゃない?」
彼女はクスッと笑いながらも、気になったように
その靴を手に取った。
「でも、思ったより可愛いかも。」

結局、2人でじっくり選びながら笑い合い
彼女はシンプルで上品なデザインの靴を選ぶことにした。それを購入すると、彼女は店先で新しい靴に履き替えた。

彼は彼女の姿を見て満足げに頷いた。
「やっぱりこれ、君にぴったりだと思うよ。」

彼の一言に、彼女は少しだけ頬を赤らめながら微笑んだ。
「ありがとう。靴を一緒に選んでもらうなんて
なんか不思議な感じだけど…嬉しかった。」

続く


〈理性が溶けるまで:5〉

彼女は足元の新しい靴に目を落としてから
並んで歩く彼の横顔をそっと見つめた。
彼の無邪気な表情、その穏やかな仕草。
彼は、彼女にとって守りたい存在であると同時に
特別な存在だった。
その事実は彼女自身が誰よりもよく分かっている。

「危ない瞬間だったのに、何も気づかずに笑ってる…」
その無防備さが、彼女の胸に甘くも切ない感覚を
呼び起こす。彼を守ることは、彼女にとって自然で
当たり前のことだった。
だからこそ、こうした時間がずっと続いてほしい――
そんな願いが静かに芽生えていくのを感じた。

これまでのようにただ守るだけでは足りない。
彼の傍にいたい、もっと知りたいという想いが
胸の奥で静かに膨らんでいく。
その想いは、彼女が冷静であろうとする意志を
少しずつ溶かしていた。
彼を守るために必要だと思っていた理性が
彼への想いに触れるたびに柔らかく崩れていく感覚―― それは彼女にとって心地よくもあり、抗えないもの
だった。

彼の存在が感情のままに動く自分を受け入れさせる。
彼女はその変化を少し恐れながらも、その心地よさに
身を委ね始めていた。

続く

3/24/2025, 12:29:48 PM