【ずっとこのまま】
ずっとこのままでいたい、と思う時と、このままではいけない、と思う時、何が違うんだろう。
本当はもっと複雑な状況、要素が関係しているのに、「このままでいる」=「現状維持」とただ認識してしまうのは、日常生活において常にすぐそばにある落とし穴のような気がする。
実際には、「幸せを感じられるこの状況がずっと続けばいいのに」とか、「何も成長していない(能力やスキルの話なのか、人格面の話なのかはともかく)今のままではいけない」などと感じているのだ。
つまり、「この」とか「その」という言葉を、受け取り手の読解力を過信して多用したせいで、概念と言葉の定義に齟齬が生じるのだ。
かと言って、誤解が起きぬよう逐一説明していては、冗長な文章になる。日本語は、主語という重要なパーツさえ省略でき、削りに削った短い言葉で豊かな意味を伝えることができる言語なのだ。それも、受け取り手のスキルに大きく掛かっているのたが。
ここまで考えて、雅臣はふと、自分の視界に映る妻の姿を認めた。
「お茶、入ったわよ」
雅臣がぼんやりしているのはいつもの事なので、特に傷ついた様子もなく、庭先のテーブルに茶器セットを並べ始めた。
「陽子の話、ちゃんと聞いた?」
「ああ、聞いたよ。」
陽子というのは、中学生の娘のことだ。
「あまり意味が分からなかっだが」
陽子が最近、インターネット上でどこの馬の骨かも分からない者とこそこそとやりとりをしている事が判明し、問いただした所だ。別に咎めている訳ではない。ただ、明らかに陽子の方には特別な感情があるようなのに、「どうしたいのか」と聞いたら「このままでいい」の一点張りだ。意中の相手と会うことも付き合うこともなく、ただインターネットという虚構の上で話をしているだけでいいらしい。その人の事で思い悩んで食欲がなくなっているのに、前に進まなくても後に引かなくてもいいと言う。その気持ちが雅臣には全く理解できなかったし、精神衛生上良くないとも思った。
「このままでいい」
雅臣はつぶやいた。
「分かるか?」と、妻に短く問いかける。
「そうねぇ…」
妻は目を細めた。春先の柔らかな日差しが降りており、妻の頬にはまつ毛の影が落ちていた。
「分かるわね」
静かに、しかしはっきりとそう言うと、ティーカップを傾けた。
しばらく、沈黙が続いた。妻の“これ”は、「自分で考えなさい」という意味だと分かっているので、雅臣も何も言わなかった。
妻から目を逸らし、庭に目を向ける。妻は自分から積極的に花を植えるタイプではないが、やれご近所さんから頂いただのママ友さんから頂いただのと、いつのまにか色とりどりの花々でいっぱいになっている。
綺麗に咲いたものだ。雅臣は自身が地味な男なものだから、妻のように華やかな印象の花が好きだ。八重咲きのバラやダリア、椿などだ。庭にはそのような花もあるが、スミレやパンジーのような、もっとさりげない花もある。
「パンジーじゃなくて、ヴィオラよ」
「それはガーベラじゃないわ。デイジーっていうの。だいぶ小さいでしょう?」
そのような控えめな花の名前は何度聞いても覚えられず、妻にいつも訂正される。
春は庭が美しくなるので、ずっと春のままでいてくれたらいいのに、と思う。
「…?」
雅臣は眉をしかめながら、急に手を宙に向けて開いたり閉じたりした。
「どうしたの?」
妻が微笑みながら聞いてくる。
「いや、何か分かりかけたような気がしたんだけど…」
私が綺麗だと思わない花を、綺麗だと思う人がいる。
ずっとこのまま…
雅臣はひたすら首を捻り続けた。
1/12/2024, 9:00:46 PM