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過ぎ去った日々

最初に言っておくが、自分でも何が言いたいのか分からない仕上がりとなっている。


がらんどうとしたラムネの空き瓶
黄色の帽子
色とりどりのランドセル
セーラー服
学ラン
運動会
何年何組という名のレッテル
それらが過ぎ去った証の卒業証書を握る
「今日は皆さんの卒業式です」
校長の声が体育館に響く
卒業式と言われても何を卒業するのだろう
学の洗脳からだろうか
同調圧力からだろうか
いや社会に出ても同調圧力も健在であるし
学の洗脳もまた健在だ
勝手に産まれて遊んでいたら学ぶ年だと言われる
それで学んでいたらすぐ卒業だと言われる
大人という人たちも皆、そうだったのだ
先生も皆、そうである。

この人類の仕組みに嫌気がさすが
さしたところでの話だ
それを変えるなど無理難題であるし
じゃあお前がやってみろと言われるだけだ
結婚して子供を産んでそれが連鎖されるのが人生だ
誰もそれに対して疑いもしない
けれど自分もその行為をへて産まれてきたのだ
皆、そうである。
「皆」という字に僕は圧を感じる
前ならえ皆にならえと言われている様な気がするのだ

そう思うと僕は“義務“教育の呪いに掛かっているような気がしてくる
義務義務義務。五月蝿いものだ。
だんだんとgiveと言っている様に聞こえてくるが
giveは与えるという意味であり義務とは程遠い言葉だ
give教育にでもなればいいのだが。
物を買い与えるなどの勘違いをする人が出てきそうだ
形のない物を与えるという教育という意味でgive教育にでもしてくれ。
“形のないものを与える“など聞こえのいい言葉で飾っているだけだ
聞こえのいい言葉で着飾れば人は騙されるのだろう?
give教育と言いながら何も与えない詐欺師が出てきそうだ

give &take教育にでもしてしまおうか。
そうしてまた人類の仕組みや子供と大人や色々なことをぐるぐると考えていく
そうすると無の地点に行く
無の地点に行って考える
がらんどうとしたお頭でまた考えようとする
当たり前と言われることについて考えても
当たり前とはとまた一つ疑い探る
がらんどうにまた戻る
そんな自分の名前は伽藍堂である
自分のがらんどう具合を伽藍度とでも言おうか

考えの終点地点はがらんどうである。
白紙に戻してまた考え、考え、考え、考え、、
考えの終電もこれまたがらんどうである。



伽藍堂

3/10/2024, 9:30:53 AM