それは洗面所に置かれていた。水はねの跡がついている鏡の下、鈍く光る銀色の蛇口のそば、小さな小さな箱だった。わたしの片手に収まるほどの、黒いスエード生地の箱。
こんなもの、昨日の夜にもあったかしら。そう思いながら、恐る恐る手に取った。箱は上に向かって開きそうだ。留具もリボンもないので、開けようと思えばいつでも開けられる。けれど、わたしは迷った後に、箱を元の場所へ戻した。今は確認するべきタイミングじゃないと思って。
キッチンへ戻ると、ケンちゃんが台所からテレビを見て爆笑していた。視線の先を見ると、大御所の芸人が若手俳優と絡み、番組を盛り上げている場面が見えた。
わたしは薄い微笑みを浮かべ、ケンちゃんの隣に立った。まな板の上にほったらかしにされていたレタスに触れ、ケンちゃんに話しかける。
「そんなに面白い? この番組」
ケンちゃんは視線を離さずに答えた。
「面白いよ。番組っていうか、この芸人がね。さすがベテランだよなあ。アイドルと絡んでも面白くできるんだもん。腕が違うよ腕が」
「最近はアイドルでも面白い人多いけどね」
「お前はアイドルオタクだからそう思うんだろ。しょせんアイドルはアイドル。俺からすると、まったく面白くないね。バラエティー番組に出てると、ちょっと興が冷めるもんな」
ケンちゃんはすぐにこういうことを言う。わたしの好きなものを貶すのが好き。ちょっと毒舌な自分が好き。
「チナツ、これもういい? 俺疲れた」
たった五分間、カレーが煮える鍋をかき混ぜるのを頼んだだけなのに、大仕事をこなしたようにこれみよがしに疲れる。でもわたしは何も言わない。笑顔で「いいよ。ありがとね」と言ってあげる。
ソファーに向かっていくケンちゃんにわたしは言う。
「ね、ケンちゃん。明日はさ、ちゃんとイルミネーション見に行こうね。今日は遅くなっちゃったから仕方ないけど、絶対に連れて行ってね」
「分かった分かった」
ケンちゃんはわたしを見ずにそう言う。絶対に分かっていないことを、わたしは分かっている。それでも何も言わない。
レタスをちぎり、トマトのヘタを取り、ゆで卵を切る。蒸した鶏肉を乗せる。温まったカレーのためにご飯を先にお皿に乗せて、やっとルーを注ぐ。それぞれ二人分作って、お皿は四つ。ケンちゃんは自分の分を取りに来ない。
わたしはまずカレーのお皿を先にテーブルへ持っていく。「できたよ」とケンちゃんに言いながら、お皿をそれぞれの席の前に置く。もう一度台所へ戻り、サラダのお皿を両手に持つ。持ったところで、「飲み物もお願い」とケンちゃんの声がした。
振り返らないまま、わたしは「うん」と返事をする。
サラダを持っていくと、ケンちゃんが大きく笑った。テレビには、お気に入りの大御所芸人。何が面白いのか分からない、若手の芸人。
「やっぱり芸人同士の絡みのほうが面白いな」
わたしに攻撃しているみたいに言う。
お揃いのコップを使うのをやめて、わたしは自分にだけ良いグラスを使い、ケンちゃんにはプラスチックのコップを用意する。ふと、手の甲にカレーのルーが少しついているのを見つける。
お茶の入ったコップをテーブルに置き、わたしは再び洗面所へ向かった。手を洗って、タオルで拭く。バカみたいに笑うケンちゃんの声が遠巻きに聞こえてくる。無性に心が刺々しくなってきて、わたしは黒い箱を洗面台に置いた。蛇口から水を出し、閉めずに洗面所から出る。カレーを食べたら、サラダを食べたら、お茶を飲んだら、この家を出ていく。もう準備は整っていて、ケンちゃんは何も気付いていない。せいぜい嫌な思いをするといい。
開かない箱は平穏だけれど、空いた箱から何が出てくるかは分からない。
12/24/2022, 8:08:25 AM