TRAPPIST-1

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 先日、長年連れ添った妻に先立たれた。三十年目の結婚記念日を目前に控えてのことだった。

 私は見晴らしのいいスカイラインの退避場で車を停め、窓の外を見遣る。ガードレールの奥に広がる鬱蒼とした針葉樹林の向こうには我が家がある街の夜景が広がっていた。最初のデートで訪れた時と同じ時間帯を選んだが、季節は当時と異なり秋だった。その方が何かと楽だろうから。
 車内で最低限の準備を整えると、助手席に置いたボストンバッグをまさぐり、一冊の手帳を取り出した。妻のエンディングノートだ。初めは私からもしものことがあった時のために遺書を書いておこうと提案したのだが、彼女はこちらを選んだ。遺書と違い、法的拘束力は持たないものの、好きなことを書ける。快活明朗で格式ばったものを好まない妻らしい選択だった。

 段々と意識が朦朧としてくるのを感じながら、静寂の中でページを繰る。自分の生い立ち、資産の行方、葬儀について──やがて、最後の私に宛てたメッセージへと辿り着いた。
 これで、ようやく終わりだ。彼女が逝く前に言えなかったこと、言っておかなければならなかったこと、そういったことを思い悩んで苦しむ必要もなくなる。これで全て終わりに出来るのだから。
 意を決して最後のページをめくった。そして、目を丸くした。

「美味いもん食って寝て、あとは好きに生きろ
 さよなら」

 拍子抜けにも程があった。たった二行だけ? そして、段々と笑いが込み上げてきた。
 そうか、さよならを言う前の言葉なんて、こんなもので良かったのか。

 私は力を振り絞ってドアをこじ開ける。隙間を閉ざしていたガムテープが外れ、アスファルトにはらはらと落ちた。入り込んだ新鮮な空気を存分に吸い込んだ後で、後部座席で熱を放っていた七輪を取り出し、中の燃えさしを道路に放って踏み消す。
 そして、はたと思い出す。そう言えば木炭がまだだいぶ余っていたな。美味い秋刀魚でも買って帰るとするか。

8/20/2024, 11:22:18 AM