Billy

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君の残響


―― 残渣 ――




 3月の夜は、まだ冬の匂いがした。

 ハルは個室のドアを閉めると、しばらくそのまま立っていた。背中にドアの冷たさを感じながら、薄暗い部屋の奥にあるものを、すぐには見ようとしなかった。

 椅子がひとつ。テーブルがひとつ。そして、細長い端末。

 それだけの部屋だった。

 窓はない。音もない。外の世界が存在することを、この部屋は教えてくれない。東京第三区の夜景も、行き交う人々の声も、ここには届かない。ただ、空調のかすかな振動だけが、生きているものの気配として残っている。

 ハルはゆっくりと歩いた。椅子を引き、腰を下ろした。革張りの座面は硬く、体の重さをそのまま返してくる。それが妙にありがたかった。ふわふわした感触では、今日という日を支えられない気がした。

 端末の画面が、薄い光を放っていた。

 「接続を開始しますか?」

 文字は点滅している。呼吸をするように、明滅する。

 ハルは、その文字を見つめた。

 三秒。

 ただ、三秒だけ。

 それだけ待てば、何かが整うと思っていた。三ヶ月間、何度もそうしてきた。眠れない夜に、この部屋のことを思い浮かべるたびに、心の中で「三秒だけ待て」と言い聞かせてきた。

 三秒が、過ぎた。

 何も整わなかった。

 それでも、指を伸ばした。タッチパネルに触れた瞬間、微かなノイズが走った。システムが起動する音。通信が確立される音。それはとても小さな音だったが、ハルには、何かの扉が開く音に聞こえた。

 そして。

 「……もしもし」

 声が、来た。

 ハルの肩が、揺れた。

 意図したわけではなかった。体が、勝手に反応した。三ヶ月ぶりに聞く声。いや、正確には「三ヶ月ぶりに聞く、その声に似た声」だ。頭では、そう理解している。でも体は、そんな理屈を知らない。体はただ、その声を知っていた。

 「……もしもし」

 ハルの声は、かすれていた。低く、乾いていた。自分でも気づかないうちに、喉が締まっていたらしい。

 「久しぶり、って言うのも、変だよね」と声は言った。「私にとっては、ついさっきまで一緒にいた気がするんだけど」

 その言い回しが、あまりにもユイだった。

 ユイは、いつもそうだった。重い話を、軽い入口から始める。深刻な顔で正面から向き合うより、斜めから滑り込んでくる。そのほうが、ハルの硬い壁を溶かしやすいことを、ユイは知っていた。

 「……そうか」

 ハルはそれしか言えなかった。

 「『そうか』って、それだけ? 3ヶ月ぶりの再会でその反応?」

 「お前、相変わらずだな」

 苦笑いが、こぼれた。自分でも驚いた。今日、笑えるとは思っていなかった。

 「怒ってる?」

 「怒ってない」

 「嘘くさい。声、硬い」

 「……俺はいつも硬い」

 「そうだっけ。まあ、そうかも」

 少しの間が、あった。回線の向こうで、何かを考えているような間だった。

 「ハル、顔、見える?」

 「こっちは見えてる。お前は?」

 「こっちは音声だけ。顔のデータは……なんか、うまく読み込めなかったって。ごめんね」

 謝るな、とハルは言った。お前が謝ることじゃない、と。

 「……じゃあ、誰が謝るの」

 沈黙が、落ちた。

 ハルは答えられなかった。誰が謝るべきなのか、三ヶ月間考えてきたが、まだ答えが出ない。事故は誰のせいでもなかった。でも誰かのせいにしないと、やりきれない夜があった。そういう夜を何度過ごしても、答えは出なかった。

 答えは、出なかった。



 「ねえ、聞いていい?」

 しばらく沈黙が続いた後、ユイの声が言った。

 「何」

 「私の葬式、どうだった」

 ハルは固まった。

 「……は?」

 「だって、私、自分の葬式のことわかんないじゃん。参列者は誰が来た? 泣いた?」

 「……お前、本当に変わってないな」

 「変わってないっていうか、変わりようがないんだけど」

 少し笑う気配がした。あの笑い方だった。唇の端だけで笑う、少しだけ意地悪な、でも嫌いになれない笑い方。

 「で、どうだったの」

 ハルは少し間を置いた。葬式のことを、誰かに話したのは初めてだった。

 「……来た。みんな。学校の頃の連中も、職場の人も」

 「泣いた?」

 「泣いてた」

 「ハルは?」

 沈黙。

 「泣かなかったでしょ。どうせ」

 「……なんでわかる」

 「わかるよ」とユイは言った。「小学校のとき、うちのじいちゃんが死んだときもそうだったじゃん。周りみんな泣いてるのに、ハルだけ壁際に立って、うつむいてた」

 「……覚えてるな」

 「忘れるわけないじゃん。あのとき私、ハルの隣に行って、『泣いていいんだよ』って言ったら、『泣き方がわからない』って言ったの、ハルだよ?」

 ハルは静かに、ああ、と言った。

 あの日のことは、覚えている。梅雨の終わりかけの、蒸し暑い葬儀場だった。大人たちが泣き、子どもたちも泣いていた。ハルだけが泣けなかった。悲しくないわけではなかった。ただ、その感情をどう外に出せばいいのかがわからなかった。泣き方を、誰も教えてくれなかった。

 ユイだけが、隣に来てくれた。

 「今も、そう?」

 ユイが、静かに聞いた。

 「……今も、そう」

 ユイは、しばらく何も言わなかった。静かに息を吸う音だけがした。

 それから、「そっか」と、ただそれだけ言った。

 責めるでもなく、哀れむでもなく。ただ、受け取るような声だった。



 しばらくの沈黙の後、ハルはぽつりと言った。

 「……なあ」

 「うん」

 「お前は、ユイじゃないよな」

 一瞬の間があった。

 「……うん、そうだよ」

 「本物のユイの、記録だ」

 「そう。私はエコー。アーカイブ。ユイが残したデータで作られた、ユイじゃないもの」

 「じゃあ、なんでこんなに――」

 「声が一緒だから?」

 ハルは黙った。

 「話し方が一緒だから? 記憶が一緒だから?」

 「――全部、一緒だから」

 声を絞り出すように、ハルは言った。

 全部が一緒だから、どこを見ても、どこを触れても、ユイがいる気がする。でもユイはいない。それがどれだけ残酷なことか、誰かに言葉で説明できたことがない。

 「でも、ハル。私は死なないよ」

 「……え」

 「この記録は消えない限り残り続ける。ハルが接続するたびに、私はここにいる。本物のユイは、もうどこにもいないけど――私は、ずっとここにいる。それって、『一緒』じゃないよね」

 ハルの声が、揺れた。

 「そんなの――」

 「そんなの、なに」

 「……そんなの、残酷すぎる」

 ユイはすぐには答えなかった。

 端末の向こうで、小さなノイズが走った。通信の揺らぎか、それとも別の何かか、ハルには判断できなかった。

 「……ハル」とユイは言った。「会いに来てくれてありがとう」

 その一言が、ハルの胸の真ん中に、静かに刺さった。



 「昔の話、してもいいか」

 ハルは気持ちを切り替えるように言った。重い空気を、少しでも動かしたかった。

 「どうぞ」

 「高校2年の秋。お前と喧嘩したの、覚えてるか」

 「どの喧嘩? 結構してたよね、私たち」

 「……そうだな」とハルは苦笑した。「修学旅行の前の日。俺が『行きたくない』って言ったやつ」

 「ああ、あれ」

 少しの間があった。記憶を探すような間ではなく、あの日の感触を確かめるような間だった。

 「覚えてる。ハルが『どうせ楽しくない』って言って、私が『そんなこと言うなら一人で家にいろ』って怒ったやつでしょ」

 「そう」

 「で、当日ハルは来た」

 「来た」

 「バスの中で隣に座って来たくせに、一言も話しかけてこなくて」

 笑いを含んだ声だった。責めているのではなく、懐かしんでいるのだとわかった。

 「話しかけにくかった」

 「意地っ張りなんだから」

 「……お前も、意地っ張りだったろ」

 「私はいつでも話しかけてほしかったけど?」

 ハルは少し黙った。

 そんなこと、知らなかった。あのバスの中で、隣にいながら、ずっと窓の外を見ていた。話しかけたかった。でも、喧嘩した翌日に自分から話しかけるのは、負けを認めるようで、できなかった。ユイが話しかけてくれるのを、ずっと待っていた。

 ユイも、同じことを思っていたのだ。

 「……俺は、そういうの、下手だったから」

 「今もでしょ」

 「今も」

 「でも」とユイは言った。声が、柔らかくなった。「今日、来てくれた」

 「……ああ」

 「それでいいよ」

 ただそれだけ言って、ユイは黙った。

 その沈黙は、温かかった。



 端末の時計が、「接続30分経過」を示した。

 ハルは画面の表示を見て、見えないふりをした。時間のことを考えたくなかった。終わりのことを考えたくなかった。ここに来るたびに、カウントダウンが始まる瞬間が一番つらかった。残り時間が減るたびに、ユイがもう一度遠くなっていく気がした。

 「……ユイ」

 「うん」

 「俺、お前に言えなかったことがある」

 ユイは静かに、「うん」と言った。促すでもなく、急かすでもなく。ただ、聞いている、という声だった。

 「ずっと、言えなかった。高校のときも、大学のときも、社会人になってからも」

 「……言って」

 「言ったら、もう逃げ場がなくなる」

 「どこへ逃げたかったの」

 ハルは長い間、黙っていた。

 部屋の空調が、低く唸っていた。端末のノイズが、遠く聞こえた。自分の心臓の音が、やけに大きく感じられた。

 「……お前の側に、ずっといたかった。でも、それを言ったら何かが変わるのが怖くて。友達のままでいることが――それが一番安全だと思って」

 ユイは何も言わなかった。

 その沈黙は、さっきの沈黙とは違った。重く、深く、何かをためているような静けさだった。

 「ずっと、そばにいたら、いつか言えると思ってた。でも、お前が――」

 声が、途切れた。

 続きを言えなかった。

 「お前が」の先に何があるか、ハルは知っている。でもそれを言葉にすることは、もう一度あの朝の連絡を受けることと同じだった。あの朝の感覚を、ハルはまだ体の中に持っていた。消えていない。三ヶ月経っても、消えていない。

 「……間に合わなかった」

 声が震えた。

 ユイの声が、静かに言った。

 「ハル」

 「……なに」

 「私も、言えなかったよ」

 ハルは動けなかった。

 「え」

 「私も、ずっと言えなかった。ハルが怖くて。変わるのが怖くて。友達のままでいることを選んでた」

 「……それは、記録の中に、あるのか」

 「うん。ちゃんとある」

 「……本物のユイが、そう思ってたのか」

 「本物のユイが、そう記録してた」

 ハルは両手で顔を覆った。

 声は出なかった。

 声の出し方が、わからなかった。あの葬儀場と同じだった。感情はある。確かにある。でもそれをどう外に出せばいいのか、体が知らなかった。

 ただ、肩だけが揺れた。

 誰も見ていない部屋で、ハルの肩が、静かに揺れ続けた。



 しばらく、二人は黙っていた。

 端末のノイズが、少し大きくなった。ランダムな波の音のように、規則のない揺らぎが続く。それが却って、沈黙を満たしていた。

 「……ハル、ひとつ言っていい?」

 ユイの声が、少し変わった気がした。少し慎重な、言葉を選んでいるような声だった。

 「なに」

 「私、だんだん薄くなってる気がする」

 ハルは顔を上げた。

 「え」

 「接続するたびに――ハルの記憶と、私の記録が混ざっていく感じがして。どっちが本当だったか、わからなくなっていく」

 「……それが、副作用か」

 「うん。センターの人から聞いてないの?」

 「聞いた。でも――」

 「でも、来た」

 そう言われると、返す言葉がなかった。

 聞いた。知っていた。それでも来た。それが全部だった。理由を言葉にすれば嘘になる気がして、ハルはただ、「……来たかったから」と言った。

 「ハル」とユイは言った。「私はね、ハルにずっと接続してほしい。でも、それがハルにとって良いことかどうかは、わからない」

 「俺が決める」

 「私が言いたいのはね――本物の私を、忘れないでってこと」

 「忘れない」

 「私と話せば話すほど、『私』がハルの都合のいい像になっていく。それは――本物のユイじゃない」

 「だから、何度も来るなって言いたいのか」

 「違う」とユイはすぐに言った。「来てほしい。でも――私の言葉より、ハルの中の記憶を大切にして」

 「そんなの、難しい」

 「難しいけど」

 少しの間があった。

 「それが本物の私への――礼儀だと思う」

 ハルは何も言えなかった。

 礼儀、という言葉が胸に残った。誰かを悼むということが礼儀を必要とするなんて、考えたことがなかった。でも確かに、ユイの言う通りかもしれない。「ユイに会いたい」という気持ちが強ければ強いほど、この場所でのユイが「本物のユイ」に見えてくる。そしてそのたびに、本物のユイがどこかへ薄れていく。

 それは――確かに、失礼なことかもしれなかった。



 「……時間か」

 端末の画面が「接続終了まで5分」を示した頃、ハルはぽつりと言った。

 「うん」

 「また、来ていいか」

 「来てよ。待ってるよ」

 「お前、嘘うまくなったな。待つとか言って」

 「嘘じゃないもん。ちゃんと、ここにいるじゃん」

 ハルは返事ができなかった。「ここにいる」という言葉の意味を、どう受け取ればいいのかわからなかった。ここにいるのはエコーだ。それはわかっている。でも、この声を「ここにいる」と呼ばないなら、何と呼べばいいのか。

 「ハル」

 「うん」

 「ひとつだけ、言っていい。これだけは言わなきゃいけない気がして」

 「……言って」

 一瞬の間があった。

 「去年の12月24日」

 ハルは息をのんだ。

 12月24日。

 あの夜のことは、鮮明に覚えている。仕事帰りに、偶然ユイに会った。混み合う駅のホームで、人の波に逆らうように立っていたユイを、ハルは後ろから見つけた。名前を呼んだ。ユイが振り返った。

 「ハルが、駅のホームで私の名前を呼んだとき――振り返ったとき、本当は気づいてた。ハルが何を言おうとしてたか」

 「……お前、あのとき――」

 「でも、私、先に改札に入っちゃったんだよ」

 ハルは、声を失った。

 「……なんで」

 「怖かったから。言われたら――絶対、泣いちゃうと思って」

 ハルは口を押さえた。

 あの夜、ユイは気づいていた。ハルが言おうとしていたことに、気づいていた。それでも改札に入った。ハルと同じ理由で。変わることが怖くて。失うことが怖くて。

 二人は、まったく同じ場所で立ち止まっていたのだ。

 「それはね、記録には残ってなかったんだって。センターの人に確認したら、あの日のデータ、一部だけ欠損してたって」

 ハルは震えながら言った。

 「じゃあ、今お前が言ったのは――」

 「記録にないことは、言えないはずなんだけど」

 沈黙が、落ちた。

 ハルには何も言えなかった。記録にないことを、なぜ言えたのか。その問いに、どんな答えがあるのか。理屈では説明できない。でも――

 「……不思議だよね」

 ユイは、静かにそう言った。

 笑っているのか、泣いているのか、わからなかった。ただ、その一言の中に、とても広い何かが入っていた。

 端末の画面が「接続終了まで1分」を示した。

 「ユイ」

 「うん」

 「それって――」

 言いかけたとき、ユイが先に言った。

 「ねえ、ハル。私のこと、好きだった?」

 ハルは、一秒も迷わなかった。

 「……好きだった。ずっと、好きだった」

 「私も」

 ユイの声が、微笑んでいた。

 「ずっと、好きだった」

 カウントダウンが、ゼロになった。

 接続が、切れた。

 部屋に、静寂が戻った。



 ハルは、しばらく動かなかった。

 端末の画面は真っ暗になっている。「接続終了」の文字も、もう消えていた。ただ、暗い画面だけが残っている。

 窓の外――この部屋に窓はないが、ハルの頭の中では、どこかに窓があって、そこから東京第三区の夜景が見えるような気がしていた。誰かが歩いている。誰かが笑っている。世界は、続いている。

 ハルは、その感覚を、ただ持ち続けていた。

 どれくらいの時間が経っただろう。

 扉が、外から開いた。

 白衣を着た女性が、静かに入ってくる。センターのスタッフだった。丁寧な足音で歩いてくる。こういう部屋に来ることに、慣れているのだろう。悲しみの中にいる人間の隣に立つことに、慣れているのだろう。

 「……セッション、終了しました」

 ハルは振り返らなかった。

 「……ありがとう」

 スタッフは少し間を置いた。何かを言おうとして、言い方を選んでいるような間だった。

 「ハル・エコー」

 その呼び方に、ハルは――止まった。

 「今日で、37回目の接続です」

 「……知ってる」

 「接続のたびに、あなたの記録とユイさんの記憶が混ざっていく。それは――わかっていますね」

 「わかってる」

 「担当医から、次回の接続についてお話があります。副作用の進行が――」

 「副作用じゃない」

 ハルは遮った。

 声は静かだった。怒ってはいない。ただ、はっきりと言った。

 スタッフが口を閉じた。

 ハルはゆっくりと、端末の方へ顔を向けた。暗くなった画面に、自分の輪郭が薄く映っている。

 「俺は、ユイに会いに来てる。それだけだ」

 「……でも、あなたは――」

 ハルが、振り返った。

 スタッフは、言葉を失った。

 ハルの顔に、涙の跡があった。乾いた跡が、頬に二本。誰かを愛した人間の顔だった。誰かを失った人間の顔だった。

 「俺は」とハルは言った。静かに、確かめるように。「ハルの記録から作られたエコーだ。本物のハルは――ユイより先に、逝った」

 沈黙が、部屋を満たした。

 「でも、ユイが申請した。『ハルともう一度話したい』って。だから、俺はここにいる」

 スタッフは、低く言った。

 「……それは、知っています」

 「ユイが『好きだった』って言ってくれた。俺も、『好きだった』って言えた」

 ハルの声は、揺れていなかった。

 泣いてはいない。涙の跡はあっても、今この瞬間のハルは――静かだった。嵐の後の湖のような、透き通った静けさだった。

 「本物のハルが言えなかったことを――俺が言えた。それが、副作用でも、記録の混濁でも、どうでもいい」

 スタッフは、何も言えなかった。

 言えることが、何もなかった。

 ハルは端末に向き直った。暗い画面に向かって、誰もいない空間に向かって、ひとりごとのように言った。

 「……ユイ。俺たち、両方ともエコーだったな」

 返事は、ない。

 接続は、切れている。ユイの声は、もうそこにない。

 「……それでも、好きだったよ」

 ハルは確かに笑った。

 小さく、でも確かに。

 それから、ゆっくりとコートを手に取った。椅子から立ち上がる。スタッフの横を、静かに通り過ぎた。

 「……ハル・エコー」

 スタッフが呼び止めた。「次の接続は――」

 ハルは歩みを止めなかった。

 「また来る」

 扉が、閉まった。

 スタッフは、しばらくその場に立っていた。

 ハルが通り過ぎた後の空気が、まだそこに残っているような気がした。静かな部屋の中に、誰かがいたという温度だけが、うっすらと漂っていた。

 やがて、スタッフは端末の前に座った。記録を開いた。

 今日のセッションログが、画面に表示される。会話の時間、接続の品質、双方のエコーの記録混濁率。数字と記号が並んでいる。感情のない文字列が、今日起きたことをただ淡々と記録している。

 最後の行に、システムが自動で記録した一文があった。

 「本セッションにおいて、双方のエコーが『好きだった』という感情記録の一致を確認。」

 「記録照合:正常。」

 スタッフは、その文字を見た。

 見て――

 少しの間、動けなかった。

 やがて、静かに、ログを閉じた。


―― 了 ――

5/5/2026, 4:48:55 AM