理性

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#だんだん理性が溶けていく話

■冷たくするのをやめたくない人の場合


〈理性が溶けるまで:10〉

夕暮れ時の駅前。
人々が忙しなく行き交う中、小さなパン屋から漂う
香ばしい焼きたての香りが彼女の足を止めた。
その香りに引き寄せられるように、彼女はふと店の方を
見つめる。ほんの一瞬だが、目に興味の色が宿る。
その様子を見た彼が、「ここ、良さそうだね。
ちょっと寄ってみようか。」と軽く声をかけた。
「…まあ、いいけど。」
彼女はそっけない返事をしつつも
視線は店内に向かっていた。

店内に入ると、木の棚にさまざまなパンが整然と
並べられている。
クロワッサンからクリームパン、チョココロネまで
どれもこんがりとした焼き色で、暖かな照明に照らされ
輝いている。

トングとトレーを手にした彼は
「色々あって迷うね。焼きたてみたいだし
どれも美味しそう。」と楽しそうに話しかける。
彼女は無言のまま視線を棚の上に動かすと
クロワッサンにふと目を留める。
その視線をさりげなく追った彼は
「これ、すごくいい香りがするね。食べてみる?」
とクロワッサンを指差す。
彼女は驚いたように一瞬彼を見上げたが
すぐに顔をそらし「…別に、どっちでも。」
とそっけない声で応じる。
しかし、目線がまたクロワッサンに向いているのを見て
彼は軽く笑みを浮かべながら
そのクロワッサンをトングで取った。

レジを済ませた後、彼はクロワッサンを1つ彼女に差し出し「焼きたてっぽいよ。食べてみよう。」と言った。

彼女は手を伸ばすのをためらいつつも
受け取るとそっと一口かじった。
その瞬間、外のサクサクした感触と中の柔らかい生地が
口いっぱいに広がり、ふんわりとしたバターの香りが鼻腔をくすぐる。
その美味しさは想像以上だった。
驚きと美味しさの両方に、彼女の目が大きく見開かれる。
思わず「これ、美味しい…!」と本音が口をついて出た。
言った後で、彼女はハッと気づき、慌てて顔を伏せる。「いや、別に普通。」と付け足すが、表情にはまだ驚きが残っている。 

だが、彼の笑顔が見えると、言葉を飲み込んだままでは
いられなくなった。
「あの…」一瞬のためらい。「ありが…」
言葉はそこで詰まり、彼女は視線を落としてしまう。
そして慌てて言葉を取り繕うように
「…別に、なんでもない。」と冷たさを装ってしまった。

彼はその様子に気づいたが、あえて何も言わなかった。
ただ、笑顔を浮かべて「焼きたてはやっぱり違うよね。」と穏やかに話しながら歩き出す。
その自然な言葉が、彼女の緊張を少し和らげる。

彼女は手の中のクロワッサンを見つめながら
その温もりを指先で確かめた。
顔は伏せたままだが、その表情には
伝えられなかった言葉が静かに刻まれている。
「次こそは…」と胸の中で小さくつぶやきながら
彼の背中を追いかけて歩き始めた。

続く

3/26/2025, 3:03:37 PM