金木犀の花びら

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        25,ごめんね

      「ごめんね、言い過ぎた」

そう、わたしの父は、わたしを先程まで批難していたとは思えないほどの穏やかな口調で、わたしをみつめた。今まで、怒ったあとは、自分は悪くないという顔をして、パソコンをさわったりしていたのに。

それで翌日は、昨日のことなんかなんもなかったみたいにすっきりした顔をして陽気に話しかけきてたのに。

父に謝られたのは、これが初めてだった。
謝ってくれただけ、成長していると、よくなってきていると、えらいと、思うべきだろうか。

けれど、謝られたとき、わたしは謝ってくれた、という驚きとか嬉しさより、今さら、という呆れに似た気持ちが真っ先に胸を占めた。

とっさに、
「わたしも、ごめん」
と言ったところで、悲しくもないのになぜだか、涙がでてきて、声が震えた。
それをみた父がわたしをぎゅっと抱きしめる。

泣いたらきっと父が悲しそうな笑みをたたえてわたしを抱擁するだろうと知っていたから、絶対に泣きたくなんかなかったのにと、自分を恨む。

涙がある程度おさまったあと、自分が怒ったのは、と、娘であるわたしに説明、もとい言い訳を始める。
父はやはり、こういうときばかり、校長先生並みに話がながい。内心、呆れ混じりに父の言うことにツッコミをいれつつ、顔だけは笑みを浮かべて、父の話しに応じる。

父が怒ることには、きちんと道理のとおっていることであることもあるのだけど、けど、父が家族間でのよくある『喧嘩』でおさめてしまうことの多くは、なぜわたしや母などが怒られなければならないのだというような、私情のはいっているものがほとんどだった。

今回だってそうだった。

ある有名人の芸名と、わたしの名前が、よく似ている、という理由で、学校の男子に馬鹿にされたことがあった。生きていたら、誰しもが、きっと一度は経験してきたのではないだろうか。親にもらった名前を、馬鹿にされるということは。

その有名人が、ちょうどわたしが怒られた日に、テレビに出演していた。わたしはその有名人がでるたびに、馬鹿にされたあの日を思い出すというのに、父は、あろうことか、件の有名人を指差し、名前が同じだと、無邪気にそう言い出した。

馬鹿にする気はさらさらなかったのかもしれない。
それでもわたしは、いやだった。そのときのわたしは父の目からみて、酷くいやな、冷たい瞳をむけていたように見えていたのかもしれない。

男子に馬鹿にされたことがあるから、それいやだ、やめて、とわたしはそう拒絶した。
なのに、父はやめない。なんで、とふざけ半分な感じで言われる。

けどだんだん、父の様子がおかしくなっていった。
ふざけていたのがどんどん本気のトーンになっていく。父が、お父さんの言っていることだよ。なのに、いやなの、とそう問いかける。父の眼鏡をかけていても大きな目が、瞳孔が開いて、わたしを攻めるような怒るような口調になっていた。最後のほうはおどけてたような調子になっていたけれど、うまく抑えられていなかった。

わたしはそのことにも驚いていたし、父の言い分は、わたしに押し付けるようだったから、なおさら不快だった。なにも言わず父を見つめていると、
「なにその目…。なんで…。お父さん悲しい…」
と父が呟いた。悲しい、と言っているその目は、言葉とは反対にひどく怒っているように見えた。

瞬間、父が手元に置いていたスマホを、誰もいないベッドのほうへぶん投げた。そして怒鳴り始める。
「どうして…!」
と。大きな声がわたしの耳へ突き刺さる。
よく聞き取れず、断片的に、どうして…だの、きらいなら…という言葉が聞こえる。

わたしは父のその様子を呆然と眺めた。
ただ、とっさに思ったのは、あ、また失敗した、ということだった。
母と姉が必死に父を宥めている。母がこっちをみて、
「早く行って!」
と叫ぶ。
「あ…」
と口から間抜けな声がでた。
父の手がわたしのほうへくると思った途端、身体がビクッとした。そうなったのを、理解して、悔しさに手をぎゅっと握る。

わたしは、自分の部屋へ向かった。ベッドに腰掛けて、しばらく放心していた。リビングのほうから、まだ父の怒鳴り声がする。
自分の手が震えているのに気づいて、気づいたら、もうだめだった。涙がどうしようもないほど溢れて、嗚咽が止まらなくなった。
あの場にいて、父になにも言えない、言い返せない自分が嫌だった。悔しくてどうしようもなくて、涙がぽろぽろと溢れた。

わたしがそうやって泣いていたあいだ、父のほうも、母と姉にどうにか宥められていたみたいだった。
涙が収まって廊下の方に行って、注意深く耳をすませば、幾分落ち着いた父の声がした。
でもそんな父の声の内容は、わたしへの批難だった。

     「あの子は弱い。だめだ。」
それを聞いて、わたしがどう思うか、考えただろうか。あの瞬間で、わたしの心は、完全にぐちゃぐちゃに壊された。紙をハサミで切って、水浸しにしたあと、ぐしゃぐしゃにして、そのあと指でこすったみたいに、わたしの心は傷ついてた。

  もう治らない。わたし自身がそれを悟った。
父はきっと、このことも、ただの喧嘩、にしてしまうだろう。そして、そんなことがあったことすら、忘れて、笑って生きるのだろうか。わたし1人、父につけられた傷を背負わされて、一生。

      考えると許せなかった。
そうはさせない。どうかこのことを一生覚えて、背負って、生きてほしい。ずっと、ずっと。

母と姉に出迎えられて、わたしは、リビングへ向かった。父の姿を見て、にっこりと笑って、
「お父さん」
と優しく呼びかける。

父が振り返ってわたしをみた。これまた父も怒った時とは一変して穏やかで優しい顔をしていた。
      わたしの名を呼んで、言う。

父のその言葉は、わたしが世界で一番、薄っぺらく、信じらないものに感じ、言われれば、虚しくなる、呪いの言葉だった。

         「ごめんね」

2024.5.30

5/30/2024, 6:42:02 AM