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梅雨の明けた、まだジメジメとした夏の始まりこと。
いつもの外回り、いつもの顧客の嫌味に辟易しながら、いつもの会社への帰路、いつもとは違うその真新しい店に目を奪われていた。
 こんなところに喫茶店なんてあっただろうか。
そう思いながら、俺はその喫茶店のドアを開けていた。
「いらっしゃいませ。」
中から声を掛けてくれたのは、大学生くらいだろうか、明るい笑顔と髪色、そして大きなピアスが印象的な青年だった。
喫茶店の佇まいは、純喫茶を彷彿とさせるレトロな雰囲気だったが、迎えてくれた彼は、あまりにもその空間から浮いているように思えた。
 だが、コーヒーを注ぐその姿に目を奪われたのは間違いなかった。

 ぼーっと見ていると、
「お客さま、お好きな席へどうぞ。」
そう彼に声を掛けられた。はっとしながら、思わず彼の目の前の席に座ってしまった。
「メニュー、お決まりになりましたらお声がけください。」
そう言いながらニコッと笑う顔が、たまらなく可愛い。
『可愛い?』年下だろうが、男に対して『可愛い』とは。暑さで変な思考になっているのだろう。子どもを『可愛い』と思う、そう母性本能をくすぐられる可愛さ!
半ば自分に言い聞かせるように、心の中で叫びながらメニューを見ているかのように、暑くなった頬をメニュー表で隠した。

「外、暑かったですよね?」
「うぇっ!?」
急に話しかけられて、思わず変な声が出てしまった。俺の変な声にくクスクスと笑う顔が、いたずらっ子のようでたまらない気持ちになる。母性本能恐るべし!と思いながら、不審に思われないよう返事をする。
「はい、とっても。本格的な夏が来るなって感じましたよ。暑さと営業回りで歩き疲れて喉がカラカラです。」
「それはお疲れ様でした。ゆっくり休んでいってくださいね。」
「ありがとうございます。あー、店主オススメブレンドコーヒーをアイスでください。」
「かしこまりました。」
彼は目を細めて、穏やかに微笑み、慣れた手つきで豆を挽き始めた。ゴリゴリと一定のリズムで豆を挽く音が心地いい。

ゆっくりと丁寧に挽かれた豆は、俺の知っているものよりずいぶんと細かいような気がするな。
まじまじと手元を見ていると、彼がクスクス笑いながら、挽いた豆を見せてきた。
「アイスの場合は、細かく挽くと甘みが出やすいんですよ。冷たいと甘さを感じにくいっていうでしょ?」
「あはは、見てるのバレちゃいました?」
「お客さんにそんなまじまじと見られることないですからね。」
そう言って、彼はニッと笑った。
さっきまで店員然とした態度だったのが、急にフレンドリー話しかけられ、思わずドキッとしてしまった。

「お客さんはコーヒー好きなんですか?」
「そうですね、休日は家でよく淹れますし、営業回りの癒しですからね。時間のある休日は自分でも豆を挽くんですが、こんな細かく挽いたことないんですよね。そっか、アイスの時は細かい方が美味しくなるのかー……って喋りすぎました!邪魔しちゃってすみません!」
「気にしないでください。僕の仕事に興味を持ってくれて嬉しいです。」
ふわっと目を細めて笑った顔は、なんとも言えない美しい顔だった。
何故だかドキドキと鼓動が小刻みで頬が熱い。

「次はお湯注いでいきますよ。ゆっくりと注ぐのが、豆の甘さを引き立たせるポイントなんです。」
そう言って人差し指を立てて口元に添えている仕草が、俺の心をどうしようもないくらい惹きつける。
「ちょっとお兄さん聞いてます?」
そう言って彼がグッと顔を近づけてきた。
「うわぁっ!」
急にドアップになった彼の顔にビックリし、大きくのけぞって椅子から落ちてしまった。
「イッッ、たた……」
「大丈夫ですか?すみません、僕が驚かしちゃったから。」
そう言ってしゅんとする彼は、子犬のようでとても可愛い。
 落ち込んでいる彼を気遣うように、何事もなかったように椅子に座る。
「いや、俺が悪いんだよ。ちょっとぼーっとしちゃって。それより、もっと美味しいコーヒーの淹れ方教えてくれる?」
そう言うと、彼はパッと明るい笑顔になり、コーヒーの淹れ方を色々話してくれた。

「お湯をゆっくり注いでいきます。だいたい2分半くらいで全部落ち切るくらいで淹れるのが僕のポイントなんです。」
「へぇ、注ぐ時間とか考えたことなかったなぁ。」
ドリッパーを上から覗き込もうと、カウンターに手をつき身を乗り出す。
「ちょっ、ちょっと!近いです!」
しまった!つい真剣になりすぎて彼に近付きすぎていた。
慌てて離れると、彼は「ふう」と息を吐いた。
「真剣に見てくれるのはとても嬉しいんですけどね。」
少し頬おを赤く染めながら、彼は嬉しそうに言った。コホンと咳払いをし、再びお湯を注ぎ入れる。
「本当、どの工程も優しくやってるよね。愛情いっぱいって感じ。」
「えっ……」と驚いた声はっとして、思い切り顔を上げた。彼はなんとも言えない目をしながらぎこちなく微笑んでいた。
「あはは、ありがとうございます。お客様のため、愛情いっぱい込めさせてもらいますね。」
笑いながら冗談を言ってはいるが、確実に傷付けてしまった。
「あっ、ご、ごめん。俺、いつも余計なこと言っちゃうから、気に障ること言ったみたいで、本当にごめん!」
精一杯の謝りは届くだろうか、できればさっきみたいに楽しそうに話してほしいと思う。
「気にしないでください。『愛情いっぱい』とか恥ずかしいこと言うから、反応に困っちゃっただけですよ。お兄さん意外とロマンチストなんですね。」
「ほ、本当か?俺よくひと言余計で、よく怒られるんだ。」
さっきまでのぎこちなさはなく、穏やかに微笑んでいる。本当に驚いただけのようだ。

「確かに、変なタイミングで、突拍子もないこというのは直す努力をした方がいいですね。」
クスクスとさっきみたいに、いたずらっ子のように笑って見せた彼は、本当に気にしていなさそうだ。

良かったと胸を撫で下ろした。

「直せたら苦労しないよ。余計なこと言って何度上司や営業先で怒られたか。無神経なつもりはないんだけどな……」
ブツブツと愚痴をこぼしながら、頬杖をついた。そんな俺を見かねたのか、話題を変えるようにアイスコーヒーを俺の前へ置いた。
「落ち込まないでくださいよ。ほら、余計なことでも人によってはよく捉えてくれる人もいますよ!それより、アイスコーヒーお待たせいたしました。」
「ありがとう。さっきの説明聞いて、楽しみだったんだ。どれくらい違うんだろう。」
そう言って、子どもみたいに目をキラキラさせた俺を、彼は安心したような顔で、優しく微笑んだ。
その笑みはどうしようもなく心を高鳴らせる。緊張のせいで、ついつい彼から目を逸らしてしまった。その時の彼のしゅんとした顔に俺はまだ気付かなかった。

「いただきます」とストローを加えてコーヒーを飲む。
「んっ!これ、いつもより甘みを感じる……!うまい!こんなうまいコーヒー初めて飲んだよ!」
興奮気味に早口で感想を言うと、呆気に取られたような顔をした彼が、カウンター越しに真っ直ぐ手を伸ばし、俺の頬にそっと触れ、だんだん近付いてくる。
「おっ、おい!」
温かい……彼の触れた手は心地いい温かさをもっていた。

今度は俺が呆気に取られていると、彼ははっとして手を離した。彼が触れたところがじわじわと熱を帯びていく。その場所にそっと触れると、胸が弾んだ。「嬉しい」と何故だか思ってしまい、はっと緩んだ口元を思いっきり押さえて目を顔をあさっての方向に向けた。
「すみません、僕……急に……」
とんでもないことをしてしまったと言う顔で彼は謝ってきた。『いや、いいんだ。嬉しかったと思った自分が恥ずかして、目を合わせられないだけなんだ。』そう言いたいのに言葉が出てこない。ドキドキと心臓が早鐘を打ち、俺と彼の2人きりの空間にうるさく響く。
静まってくれ俺の心臓!早く何か言わないと!そう思いながらも鼓動はどんどん早くなっていく。

カウンターのみの小さな喫茶店で、彼と俺の2人だけのこの状況で、微妙な気まずさを打ち消す何かはなく、俺はアイスコーヒーを一気に飲み干し気持ちを落ち着けた。
「コーヒー美味しかったよ!会社と顧客の行き帰りの道に、こんないい喫茶店ができたなんてラッキーだったよ。ごちそうさま。代金はここでいい?」
サッと立ち上がり、何事もなかったように代金をカウンターの上に置く。
「はい、喜んでいただけて何よりです。ぜひまた……来てください。」
ぎこちなく笑いながら、代金を手に取る。きっと彼も、俺はもう来ないと思っているだろう。
『もちろんまた来るよ』と彼を励ます言葉を掛けようと思ったが、気落ち姿を見て、俺は不意に中学生の頃好きだった人のことを思い出した。いたずら好きのくせにそのせいで他人が傷付くと自分も傷付く奴だった。

そうか、俺は彼に恋をしてしてしまったのか――

先ほどまでの感情に名前が付いたら、心にストンと落ちた。『こんな気持ち、男に向けられたら嫌だろう』気付いてしまった気持ちと『もちろんまた来るよ』の言葉をそっとしまい込んで、俺はドアノブに手をかけ、重たく感じる扉をグッと思いっきり押した。瞬間、彼が俺の手をギュッと握ってきた。
「待ってください!」
「ど、どうした?」
「待ってください!また、また絶対来てください。」
「もちろんまた来るよ。」
(嘘だ――)
「嘘……そんなの……さっきはごめんなさい、キ……変なことしちゃって何も言えなくてなっちゃって……その……」
彼は瞳を潤ませながら、きゅっと唇を結んだ。
「そんな焦んなって。」
そう言いながら彼の頭をポンポンと軽く叩いた。
慌てて俺を引き止めてくれたことが嬉しくて、ついつい口元が緩む。ダメだ、しまい込んだ想いが溢れ出しそうだ。
また来てもいいだろうかと欲が出る。
「コーヒーもうまいし、お前は弟みたいに可愛いし。さっきの頬に触ってきたのだっていたずらだろ?だからそんな顔するなよ。」
『また来るよ』そんな不確定な言葉を使わないように気を付けながら彼に声を掛ける。
途端に握られた手をさらに強い力でギュッと握られる。
「また来るって、言ってくれないなら……」
「えっ?」
くぐもった声で彼は何か言っていたが全く聞こえなく、聞き返す。するとキッと力強い顔をして、思いもよらない言葉を綴った。
「また来るって言ってくれないなら、もう会うことがないなら、僕のこの気持ちを言ってもいいですよね?あの!僕ずっとあなたのこと知ってました。ずっとずっと想ってました。好きです。」
「えっ……今……」
聞き返そうとした途端、彼はまた矢継ぎ早に話を続けた。

「向かいの路地で雨の日に捨て猫に傘あげてるの見てました。少し先の横断歩道で、点滅信号を渡りきれないおばあちゃんを背負って渡ったこともありますよね?それも見てました。最初は優しい人だなって思いました。ただそれだけ……でも2先の信号のコーヒー豆専門店で、コーヒー豆を真剣に選んでたあなたを見て声を掛けて色々教えた時、すごく喜んでくれて、僕を温かい気持ちにしてくれました。好きなことに対して突っ走る僕の話を長々と聞いてくれました。楽しかった……あんなに好きなこと話せるのは初めてで、嬉しくて、好き……好き……」

(こんな息を切らしながら……俺のことを――)

この可愛い生き物を抱きしめたくてたまらなくなって、次の瞬間には思いっきり抱きしめていた。
何が起きたのか分からないと目を丸くしながらパチパチしている。本当に可愛いと思う。

「俺も、君のこと好きだよ。コーヒー注ぐ姿がカッコよくて、好きなことを目をキラキラさせながら話してくれるところ、夢中になると割と周り見えなくなるし、いたずら好きだと思ったのはいたずらじゃなかったけど……自分の行いですぐ他人を傷付けたって思い込んで自分を傷付ける。でも今回は君が悪いわけじゃなかったんだ。俺が、その……好きかもって気付いて、男にこんな気持ち向けられても迷惑だと思って去ろうとした。ごめん。」

俺からこんな話が出るなんて思わなかったのだろう。いまだに、ありえないという顔で呆気に取られている。
そんな彼の手を取り、自分の胸に当てる。
「こんなにドキドキしてるんだよ。嘘じゃない。」
「嘘……じゃない……」
そう呟くと、わっと大粒の涙をこぼしながら泣きじゃくった。
「よしよーし、嘘じゃない。またここにも来る。君の話もいっぱい聞くよ。」
頭を撫でながら、カウンターの椅子に座らせる。目を逸らすために下を向いていて気付かなかったが、ずいぶん唇を噛んでいたようだ。少し血が滲んでいる。告白なんて勇気のいることそう簡単なことではない。相当の思いをもって告げてくれたのだと思うと胸の奥底から温かい気持ちが湧き上がってきた。

一頻り泣いた彼は、目を赤くしながら嬉しそうに目を細めて笑って、隣に座り直した俺の肩にそっと寄りかかってきた。
「嬉しいです。同じ気持ちだったなんて。夢じゃないですよね?」
「夢じゃないよ。俺も夢じゃないかって思ったけどね。」
そう言って俺も彼に寄りかかる。

ゆるやかな時の流れを感じながら、今この瞬間が現実なんだと確認し合うように、彼の髪の毛を指ですいたり、赤くなった目元をそっと指の腹で撫でたり。彼は少し大胆な性格のようで、俺の頬に手を添えチークキスをしたかと思うと、唇に触れ形を確かめるように左端から右端へと親指の腹を優しく動かす。
くすぐったい感覚と、そわそわする気持ちが一気に押し寄せてくる。

「ふふっ」
思わず笑ってしまう。彼もつられたように笑い返す。さっきはあんなにも恥ずかしかったのに、もう顔が近いことなんて気にならない。こんな穏やかな気持ち何時ぶりだろうか。
コツンと額を彼の額に押し付け、俺の唇に触れていた手にそっと触れ唇から離す。
「唇、少し血出てるよ。痛くない?」
「えっ、気付きませんでした。言われるとちょっと痛いかも……あ、そうだ、よかったら撫でてくれませんか?」
俺の手を取り、唇へと運ぶ。そっと触れるとピクッと彼の身体が少し跳ねた。
「悪い、痛かったか?」
「いえ、大丈夫ですよ。それよりもっと欲が出てしまいました。」
「なんだ?」
「傷、舐めてほしい……です」
「えぇっ!」
驚きのあまり、後ろにのけぞって離れようとする俺を、すかさず腕を掴みグッと引き寄せる。
「うわぁっ!」
急に引っ張られバランスを崩してしまい、唇と唇が触れるスレスレまで彼に近付いてしまった。鼓動が彼にも聞こえるんじゃないかと思うほどにドキドキと大きな音を立てている。
(こんなに近づいてしまったら、もう腹を括るしかないのか……)
意を決して目を瞑り、舌を伸ばし彼の唇の傷を舐める。少しの鉄の味とコーヒーの苦味、それに甘い彼の味が俺の口の中で混ざり合って入ってくる。
とろんと薄く目を開けて彼を見ていると
「もう我慢できない。」
そう呟き、にゅるりと舌を舐め、グッと絡ませてきた。
「っんん!……あっ……」
(俺、キスしてるのか……今日初めて会って、一目惚れの彼に?一体今何が――)
されるがまま唇を舐められ、舌を絡められ、にゅるりと口の中に舌を押し込まれる。頭がふわふわするような気持ちよさにおそわれ、今の状況を理解できない。
「ふっ……っ……あぁ…………」
目尻に涙を溜めながら、またとろんと熱っぽい視線を彼に向ける。すると彼は急にそっぽを向いて、グッと肩を抑えられ引き離されてしまった。
「あの……すみません、自分でしといてなんですが、お兄さんにとって今日は初対面で、ぼ、僕は嬉しいんですが、成就したわけですし、でもなんかその、そんな顔で見られたら抑えがきかないというか……」
ごにょごにょと最後の方はほとんど聞こえず、聞き返そうと抑えられた肩に反発するように顔だけ前に出す。すると、さっきまでも真っ赤だったが、さらに耳もうなじも全部を真っ赤にして、ギュッと目を瞑り
「ちっ、近いです!」
と思いっきり頭突きをされてしまった。
「いっってぇ!何すんだよ!」
あまりの痛さに額を抑え、先ほどの甘い雰囲気はどこへという感じで、ぷくっと頬を膨らませ抗議する。
「ダメ!ダメです!ついつい流されてしまいましたがお兄さんにとっては初対面ですし……というか1回会ってるのに忘れられてること、言ってて急に悲しくなってきました……」
告白からタガが外れたのか、よく喋るなと面白くなってしまい、ぷくっと頬を膨らませていた空気を一気に吹き出して笑った。
「ぷっ、あはははは!スゲー喋るじゃん。」
一頻り笑い、そういえばと好きなことに対しては突っ走ると言っていたことを思い出し、ニヤニヤしながら俺は、余計なひと言を言ってしまった。
「もしかして俺のことすごい好きだったりする?」
またも彼は身体中の皮膚が真っ赤に染まっていた。
「えぇ好きですが、お兄さん、それは誘っているんですか?」
何かのスイッチを入れてしまったのか、彼の目が据わっている。即座にヤバい空気を察知し、椅子から立ち上がろうとするが、彼の方が先に立ち上がり、両手をカウンターに付き、俺に覆い被さるように立った。
何も言わずにじっと俺の顔を見つめてくる。
唇にキスを落とし、目元に鼻、頬に額と色々なところに柔らかなキスの雨を落とす。それがくすぐったいような気恥ずかしい気持ちにさせ、彼の檻から逃げようと身をよじる。しかし逃げられるはずもなく、抱きしめられカプっと首筋に歯を立てられ、ビクンと身体が跳ねた。
「んっあぁっ!何して……あっ、はぁ……」
「ほんと、お兄さん煽りすぎですよ。どうしてくれるんですか?」
言いながら俺の手を掴み、彼の下半身へともっていく。
これはシたいという意思表示なのかと、窮屈そうにズボンを持ち上げているそれを見て、戸惑っていると、冗談だとでも言うかのような笑顔で下半身から手を退けた。
「冗談ですよ、そんな困った顔しないでください。でもいずれは、お兄さんとシたい……です。」
えへへと笑いながら、彼はまた隣に座った。
ホッとしたような残念ような複雑な思いを吐き捨てるように「はぁ……」と息を吐いた。
そんな俺を見て苦笑いしながら、彼は今さらな質問をぶつけてきた。
「あの、今さらなんですけど、名前聞いてもいいですか?」
そうだった、俺たちはまだ【お客】と【喫茶店店員】としか知らない。名乗りもせずあんなことしていたのかと、俺も苦笑いをしながら名乗る。
「本当に今さらだな。俺は二階堂拓真。改めてよろしく。」
「拓真さん……僕は一條尊です。拓真さん、改めてよろしくお願いします。」
「一條尊くんだね、よろしく。というかもう下の名前で呼ぶんだ。」
「ダメ……ですか?」
うるうると子犬のような目で訴えかけてくる彼は、とてもあざとく、とても断れない。
「ダメじゃ……ないです。」
「ありがとうございます!僕のことも尊って呼んでください、拓真さん」
そう目を細めて穏やかに微笑む彼は、最初ここに入ってきた時と同じだった。これからもこの穏やかな微笑みを見られると思うと、ついつい嬉しくなってにやけてしまった。

「そういえば、拓真さん会社は大丈夫ですか?」
「あぁっ!俺会社に帰る途中だったんだった!」
はっとして時計を見ると18時になるところだった。喫茶店に入ったのは15時だったので、3時間も滞在してしまったことになる。予定通りに帰社しなかったこと、上司に詰められると思うと、大きなため息が出た。
「すみません、僕が引き止めてしまったので」
申し訳ないとしゅんとする彼はやっぱり子犬のようで、とても庇護欲をそそる。ついつい頭をポンポンと撫でてやりたくなる。
「尊くんのせいじゃないよ。だから気にしないで。そういえば俺ずっと居座っちゃってるけどお店も大丈夫?」
俺も『そういえば』なことをしていた。
「大丈夫ですよ。そもそも今日は営業中看板出してないので、本当は誰も来ないはずだったんですけど、拓真さんが来てビックリしました。」
「えぇっ、そうだったのか?なら入ってきた時に言ってくれればよかったのに」
「だって仲良くなるチャンスだと思ったんですもん!営業中だと2人きりでは話せないでしょ?」
尊くんはクスクスと笑いながら、頬にチュッとキスを落とした。
なんて策士なんだ!そう思いながらキスされたところをさすりながら呆気とられていると
「さぁ早く行かないと、余計怒られちゃいますよ!」
そう言ってカバンを拾って持たせてくれた。
まったく、いたずら好きの可愛い恋人ができてしまったと、満たされた気持ちでいっぱいだった。
「拓真さんに限り年中営業中なので、いつでも来てくださいね。また『愛情いっぱい』注いだコーヒーを振る舞います。」
「何恥ずかしいことサラッと言ってるの。尊くんも意外とロマンチストだったんだね。」
ふふふと2人で笑いあい、俺は尊くんに見送られながら喫茶店を後にした。

愛を注いで

12/15/2023, 1:51:54 AM