薇桜

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 胸が、痛いくらいに鼓動している。こんなに鼓動するのは、目の前で恩人である師匠を失った日以来、もう数十年前のことだ。
「アイシェル。胸がどうかした?」
言われて気づく。私は無意識に胸をおさえていた。
「…ううん。なんでもない。」
「ほんとに?」
私に問いかけてくる彼は、自分のせいだってこと、わかってないのだろうか。
 私は今初めて、彼が現在の医学では治せない病気であることを知った。
 私はまた、大切な人を失うのか。孤児だった私を1人でも生きていけるようにたくさんの技術を教えてくれた師匠に次いで、家族の温かさを教えてくれた彼を。
 そんなの、
「嫌だ…嫌だ、嫌だ…。」
鼓動がどんどん大きくなる。痛いくらい、じゃない、痛い。彼が何か言ってるけど、聞こえない。胸の鼓動の激しさに押しつぶされそうだ。
 その瞬間、私の体は何かに包まれた。
「大丈夫。」
少し震える彼の声。彼が、私を抱きしめている。
「僕だって、嫌だよ。」
私ははっとする。私が彼を大切に思っているように、彼も私を大切にしてくれていた。
 密接した体を通して、彼の鼓動を感じる。震える声の割にゆっくりと安定した鼓動で、私を落ち着かせてくれる。
 私の鼓動が戻った頃、ようやく私はうなずけた。

9/9/2023, 9:38:48 AM