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今にも浮き出た血管が破裂しそうなほど、興奮した中年の男が唾を飛ばしながら俺の目の前で怒鳴り散らしていた。
こいつは週に一回、俺の働いているレンタルDVD店に顔を出し、自分より立場の低いと思っているスタッフに日々の生活の鬱憤をぶつけにくる。
何で、そんなことで?と言うような事でも、鬼の形相で怒鳴り散らす様を、男の頭に被さっているバレバレな毛の塊が落ちそうだなぁと思いながら見ていた。
「おいっ、おめぇちゃんと聞いてんのかぁっ?」
「あっ、はい。誠に申し訳ないです。」
微塵も悪いと思ってないが、この場を乗り切るにはこうするしかない。この男の気が晴れるまで我慢だ。そう言い聞かせ、男が満足して帰った頃には定時を過ぎていた。周りのスタッフに励まされながら、帰り支度をして自転車に乗り家路につく。
ペダルを漕ぎながら、あの男みたいに自分の欲望に忠実に生きていけたら、どんなに楽なことかと考えていた。
一度でいいから欲望に忠実に行動した感覚を味わってみたい。
そう考え事をしながらの走行中、道路の割れ広がった溝に自転車を走らせてしまい、チェーンが外れてしまった。
ペダルが空回りし、右足のスネに鈍い痛みが走る。
「っつくぅぅう…!」
突然の痛みで変な声を上げながら、自転車を止める。
痛みを我慢しながらチェーンを直すためしゃがみ込む。
なかなかハマらないチェーンに苛立ちを抑えながら、自然とつぶやいていた。
「くそが…」
一度呟くと、雪崩のように心の中にある憎悪が口から溢れ出る。
「なんで俺がレジの時に毎回あの野郎がくんだよ!ふざげんな!俺はサンドバッグじゃぁねぇんだぞ!」
今までの嫌な思い出が蘇る。
中学の時、やりたくもない委員会に入らされた事。
高校の時、付き合っていた彼女が他校の生徒と浮気していた事。
就活で人格否定された事。
いつのまにか、チェーンを直すのをやめて男の家を目指して走っていた。
男の家の住所は、会員証更新の時に覚えていたので困らなかった。
インターホンを押す。
ドアの隙間から男がのぞいてくる。
ドアのキーチェーンはかかってない。
頭を掴む。
押し倒す。
酒臭い。
何か、叫んでる。
うるせー
拳を叩きつける。
拳を叩きつける。
拳を叩きつける。
泣いてる。
拳を叩きつける。



そうか、これか。
この感覚が…

3/1/2023, 2:59:44 PM