神永

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 その香りに誘われて、小さなティーサロンの扉を静かに開けた。
 外の喧騒から切り離されたその空間はまるで異国の片隅に迷い込んだかのように静かで、そしてどこか懐かしさを感じさせる。漂う紅茶の香りがふわりと私を包み込み、時間がゆっくりと流れていくのを感じた。

 店内にはアンティーク調の家具が整然と並び、壁には色褪せた油絵が飾られている。
 落ち着いた光が柔らかにテーブルを照らし、まるで昔の映画のワンシーンにいるかのようだ。
 カウンターの奥に立つ店主は、静かな微笑みを浮かべながら私を見つめていた。

「いらっしゃいませ。どうぞお好きな席へ」

 その言葉に軽く頷きながら空いた席に腰を下ろした。
 店主が微笑みながら、いくつかの容器を手に取りそっと開いて香りを漂わせてくれる。目を閉じて香りを吸い込むと、鼻腔に広がるのは「アールグレイ」のベルガモットの香り。
 その馥郁とした香りはまるで心の奥をそっと揺さぶるようで、私は思わずそれを選んでいた。

 湯がポットに注がれ、立ち上る蒸気が私の鼻先をくすぐる。
 目を閉じるとその香りが過去の記憶を優しく呼び覚ましてくれる。
 受験勉強に追われた学生時代、夜遅くまで机に向かう私に母がそっと差し出してくれたのもこのアールグレイだった。
 カップを手に包み込むと、ふわりと温かなぬくもりが伝わりどんなに疲れていても心が少しずつほどけていったあの日の夜が鮮明に蘇ってくる。

 店主が静かに口を開く。
「紅茶の香りには不思議な力がありますね。ときに、過去の思い出を優しく運んできてくれるのです」

 紅茶を口に含み、その穏やかな味わいに心がほっと和む。
 過去の自分と今の自分が、カップの中で交わるような不思議な安堵感に包まれた。
 母との何気ない時間、言葉では伝えられなかった優しさが今この瞬間にそっと私の心を温めてくれているようだった。


【紅茶の香り】

10/27/2024, 2:15:39 PM