男の佇む周辺ばかりが全く色を失ったように思えて後藤は目を擦った。
ここは化物の棲まう紅毛の絨毯や悪趣味な舶来のけばけばしいものばかりの洋間のはずだというのに、男の周りだけは違う。まるで彼の周りにだけ凪いだ湖面が広がるようだった。
男の提げる薄氷の色をした地金の刀の鋒が届く間合い。
その間合いは深い森の奥の真名井や、神社の禁足地と同じ緊張感をはらんだ静謐に満ちていた。
男はほとんど無防備の有様で切先を下ろして、ただ佇んでいるように見える。いっそぼんやりとしてさえ見えた。
しかしそうではないことを後藤は知っている。
間合いはくっきりとした生と死の境として存在していた。無論、それは相対する相手のみであって、後藤にとってはいっそ恐ろしいほどの美しさであった。
相対する奇怪なものが男に振り下ろす巨大な腕が、重たい音を立てて地面に転がる。
男は色のない世界をひきつれて一歩、自ら間合いを詰めた。その一歩はまるでせせらぎのようにさりげなく、それでいて大きい。はっとする間もなく巨魁の懐に男は立っていた。
流れるような滑らかさで刃が返される。薄氷の色をした刀が掬い上げるように振り上げられる。瞬間、逆巻く渦潮のような水飛沫が青々と洋間に爆ぜる。
ついで巨魁の首がおもたげな音を立てて床に転がる。
おそらくは首を切られたことさえ気付かぬ間に事切れたことだろう。
鋭く、早く、そして水の流れのように自在で流麗。これほどの剣の腕を持つ人間がいることが後藤の理解を超えていく。
音もなく刀が鞘に収められて初めて、後藤の視界に色が戻った。
男は後藤を一瞥してただひとつ首肯いた。
よろしく頼む、なのか、後始末をやれ、なのかとんと判断はつかぬが命を助けられた手前後藤は赤べこのように首肯き返した。
かあ、と老鴉が男を呼ぶ。
それに男は一息つく間もなく窓を抜けて月夜に飛び出してあっという間に姿を後藤は見失う。
いなくなった方角を唖然と見送って、後藤は我に帰って室内を振り返った。
静謐さのかけらもない、けばけばしい華美なばかりの無作法な洋間が、あいも変わらず広がっていた。
4/19/2023, 5:00:43 AM