鍵を回す。扉を押し開ける。振り返って鍵を閉めて、部屋の電気をつける。そうやって最初に目に飛び込むのは、一段高くなったフローリングに寝そべる、乾ききった花たちのミイラだった。
彼女がくれたものだ。
生まれてこの方二十五年、結婚どころか恋愛とも無縁だった。学生のときも、友人が気になる女の子にアプローチするのをその他大勢として教室の隅で眺めては、どこか遠い世界のことのように感じていた。
そんな俺がはじめて恋と呼べる気持ちを抱いたのはまあまあのやる気で受かったまあまあの企業の、ふたつ歳上の隣の部署の先輩だった。たぶん特別かわいいわけでもなくて、なにかすごく人を惹きつけるような人でもなかったけれど、それでも彼女の近くはとても居心地が良くて、そういう意味で人気な人だったと思う。
男の社員よりは女性社員に囲まれていることの方が多かったし、俺と接する時もきっちりパーソナルスペースを守って、少し遠くから様子を窺うような人だった。他人の物に触れる時は、必ずひと言断りを入れてから触れていたのが印象に残っている。
はじめて俺の家に来た時もそうだった。ドアノブ、スリッパ、洗面台、トイレ。彼女は律儀なまでにひと言断り、使い終わったあとはていねいにお礼を言ってきた。付き合ってからもそうだった。生き物が好きで、動物園や植物園によく一緒に行った。人のごったがえすシーズン真っ只中の花畑でさえ、列に十五分並んでようやく見れた芝桜にさえひと言、失礼しますと言っていた。そういう光景を見続けたものだから、俺も彼女の物に触れるときは、ひと言断るようになっていた。彼女の親に挨拶したときも、同居を決めたちいさなマンションに一緒に荷物を運び込んだときも。
血に塗れた白いダウンジャケットに、震える手で触れたときですら、その言葉は自然に口からこぼれ落ちた。
通りがかりの子供を庇って通り魔に刺された彼女は、そのまま帰らぬ人となった。ふたりでちいさな幸せを積み上げるはずだったマンションには、俺だけが取り残された。
俺は、彼女が運び込んだまま開けることはないダンボールひとつにすら触れられずにいる。それに指を伸ばしては自動的に喉が震えそうになって、そのたび、彼女と寄り添った時間がフラッシュバックする。彼女のあたたかさ、柔らかさ、いつまで経ってもていねいな口調が、まるでそこにいるかのように俺の周りをくるくる周る。気道が締まる。呼吸ができなくなる。彼女の命を奪ったくせに、のこのこその辺の誰かにやり返されてとてもとても安全な檻の中にいるアイツが許せなくて、殺意に頭が痛くなる。
だから。こんなに醜い気持ちに満ち溢れた身体で、きみが微笑みながらそこに置いた美しい花束に触れることなんて、できないから。
すべてが茶色に染まった花束は、まるであの上着にこびりついた血のかたまりのようだった。
俺は、今日もそれに触れられないまま、ダンボールに埋め尽くされたままのリビングに縮こまって、アイツが檻から出てくる日だけをただ、待ち続けている。
2/9/2024, 3:42:36 PM