080【どこまでも続く青い空】2022.10.24
その老婆は巫蠱である、ということだった。彼女は頭陀袋のなかからちいさな盒をとりだすと、蓋をとり、肉片の小塊のようなものを箸でつまみあげ、携えていた虫籠のなかのスズメバチに喰わせた。つぎに、黄色い呪符を出してきた。虫籠に貼付けなにやらぶつくさと呪うと、籠の戸をひらき、スズメバチを放した。スズメバチは躊躇無くそこに引き据えられていた囚人の眉間を刺し、囚人はあっという間に息を詰まらせ、絶命した。
巫蠱の老婆はもうひとつ虫籠を出してきた。それにはトンボが捕らえられていた。大きさと色からして、カミツキヤンマであろうとおもわれた。老婆は呪文を唱えつつさきほどの呪符を指差し、ぼッと燃え上がらせつつ、ヤンマを放した。ヤンマは真っ直ぐにスズメバチを捕獲し、喰らい、真っ逆さまに墜落し、動かなくなった。おそらくは、人ひとりをたちまちのうちに絶命させるほどの毒にあたったのであろう。
「……なるほど……」
王籍は兄、王範のつぶやきを耳にして、はじめて、詰めていた息を解放することができた。
「ハチの飛びかうようなところであれば、どこででも、あやしまれることなく、人を殺すことができる、と?」
「さようでございまする。虫どもが飛ぶことができ、空がつながっておるところなら、どこででも」
「ふふ……長江をこえて、鮮卑の首領をも狙うことはできるのかな?」
「やろうとおもえば、できぬことはないかとぞんじまする」
王範が弟をかえりみた。口もとはにこやかで、目はすずしげである。あれほど壮絶な現場を目撃しておきながら、顔には愉快とすらかいてあった。
「どうだ、使えそうか?」
王籍はつとめて平静をよそおいながら、
「使わぬにこしたことはないとはおもうがな……」
と返答するのがやっとであった。
王範はなおも老婆と会話をつづけていたが、王籍は、いったんその場を辞した。暗鬱な室からおもてにでると、快晴の日差しにまともに目玉を焼かれた。
彼は兄を敬慕している。基本的には。
彼の兄は、才ある者を見出すことにすぐれていて、出自不問で抜擢する。人心の掌握も絶妙であったから、抜擢されたものが王範の期待を裏切ることなど、まずありえなかった。しかし、ごくたまに、その扮装にひびが入り、ひとの心を平然と踏みにじり命を物としか思っていない正体がはみ出してくることがある。今日の、いまさっきのように、だ。
一匹のハチがいちどに連続で何人までのひとを殺めることができるかなど、王籍は、いまは知りたくもなかった。
王籍は、そこの庭石に、どすん、とすわりこんだ。まるで日光になどあたりなくもない、とでもいうふうに頭を抱え、呻きを漏らした。その頭上には、雲ひとつない、どこまでも続く青い空がひろがっている。
どんな戦も、大将さえさっさと討取ってしまえれば、もっとずっと楽に勝てる。こんどの野盗討伐は、ひとつ、兵を動かさずに、それでやってみようか。なにごとも一度は試しておかねば、肝心なときに使いものにならないからな。と、さっきから、そんなことばかりが頭の中で渦を巻いている。かような術が実在することを知ってしまった以上、これからは戦に出るたびに、巫蠱の殺人術を用いたくなる誘惑と、力尽くで戦わねばならなくなりそうであった。
なぜ空は途切れることなくどこまでも続いているのか。そのことが、いまはただ、呪わしかった。
10/24/2022, 4:39:38 AM