まっしろ

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【ひなまつり】

学校鞄を背負って帰宅し、家の中に転がり込んだ午後6時。
灯りのついたリビングへ入ると、食卓にちらし寿司が置かれていた。

「今日は、ひなまつりだから」

そんな母の言葉で、今日が"ひなまつり"という行事がある日だと思い出す。
ここ最近は、まともに年中行事を祝うことが少なくなった。端午の節句とか七夕とか、正直どうでもいい。ただ誕生日とクリスマス、加えてバレンタインの日に、ゲームやらお菓子やら何かしらのプレゼントがもらえれば、それでいいのだ。

「あ、ひな人形、出してあげないと」

なんて、慌て出した母の背中をそっと覗く。
学校から出された課題はあるが、そんなもの知ったことではない。どうせ、寝る前か明日の朝に持ち越した後に終わらせてしまえばいいだけのこと。
母は、せっせと和室の引き出しの奥で保管されていた巨大なダンボールを床に置くと、中身を包んでいる紙の包装を丁寧にはがしていく。
フッと懐かしい匂いがした。
母の手元から、鮮やかな着物の柄が見えた。指の隙間からは、きめ細やかな黒髪や白い肌が見え隠れしている。

しばらくして、設置し終えたひな壇は、薄暗い和室の中でも輝いているように見えた。礼儀正しく座り、杓や扇子を持つ様は、さながら威厳と華やかさを感じさせる。これが、いわゆる"ひな人形"か、と改めて実感する。
こんなにも、ひな人形をまじまじと眺めることが久しぶりだったからだろうか。まるで、初めてそれらを見たかのような心地がした。


制服から私服に着替えてリビングに戻ると、食卓には、ちらし寿司の他に紅白大福とこんぺいとうが置かれていた。
……なぜ、紅白大福? 

「さくら餅、買うの忘れちゃったから、代わりの大福」

頭に浮かんだ疑問を口にする前に、すかさず母が答える。私は、なんでもかんでも顔に出やすいから、きっと眉をひそめて首でもかしげていたに違いない。その様子を見て、きっと母は瞬時に察したのだろう……多分。

席につき、母と一緒に手をあわせる。いつものことだ。父は、毎日のように仕事が長引くため、今日も帰ってくるのは深夜頃だろう。
いただきます、と母の声。
でも、いただきます、と私は言わない……というか、言うのがもどかしく感じるから言えないのだ。
お箸でちらし寿司を一口すくう。父が酢飯を嫌うから、我が家のちらし寿司は食べると白米の素朴な味がする。
ちらし寿司を食べ終えると、小皿へ雑に入れられたカラフルなこんぺいとうを、これまた雑につかんで口の中に放り込む。ガリガリガリ、と脳内に音が響く。

箱に一つずつおさまっている紅白大福。
おまけ程度にシソの葉が一枚のせられているが、どうせ食べないのでいらないと、それをどかす。
紅い餅を食べようと手に取った。

「ねぇ、お父さん、今日はもう帰れるって」

突然の母の声が一瞬だけ、私の脳をフリーズさせる。
ぎこちない動きでスマホを見てみると、一件の新着メールが来ていた。父からの……内容は確認したが、返信はしない。胸の内にある想いを、なんと言葉にすればいいのか分からないから。
行事を祝うのも悪くはないなぁ。
なんて、思いながら、学校の課題は夜の何時から始めようかと考えをめぐらせる。

3/3/2023, 12:10:59 PM