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呆気なく思い入れもない25年間だったけれど、こうなると少し前の自分への恋しさがむくりと芽生えてくる。人間は結局ないものねだりをする生き物で、大きい期待と新しい生活の緊張と嬉しさ、それらの喜びの中にちょっとの後悔もあるのが現状だった。

ぐつぐつ鳴る鍋の中にパスタを入れる。早ゆでで3分、タイマーをかけて塩をひと振りする。塩なんて意味もないだろうと言われもしたけれど根付いた習慣はすぐに脱却は出来ない。
3分。
今だからっていうのもあるかもしれない。どうしてか昔を思い出す。



3分、
そういえば恋に落ちるには十分な時間だったなと思い出す。



一目惚れでは無いし、一々外見を見てどうのこうの言う訳では無いし、そもそも人に興味を持たない方で、たった3分見ただけの知らない男に恋をするなんてことは例外中の例外だった。

連れられた合同ライブ。不思議と運命は些細な事で縁を結ぶもので、もしあの時、妹が2枚もチケットをとっていなかったら今こういう事にはなってなくて、私は小さな狭い家に1人で住んでいて、その世界での私は今きっと1人でパスタを茹でているんだろう。
現代での歌手は大変で、短く収めないと聞いてもらえないんだと言っていた。ギターの悲しげな音色で始まる3分ぽっきりの失恋ソング。まあ、計略通り彼はそれで売れた。


3分で恋に落ちたあの日、ギターピックがおでこに当たって痛い思いをしたあの日、目が合って今までに無いほど大勢に睨まれたあの日、初恋をしたあの日。

タイマーがピピッと音を鳴らす。音に敏感な同居人が起きないようにすぐにタイマーを消す。3分、パスタが茹で上がった。

私は料理は得意じゃない。朝にわざわざパスタを茹でたのも、今日が特別な日だから。作りたいと思える人が出来たから。
皿に盛り混ぜるだけのパスタソースを和える。2皿分のたらこパスタ。

「朝ごはん出来たよ」

大声で言うとしばらくしてぺたぺたと足音が聞こえた。
鼻歌を口ずさむあの落ち着いた歌声は3分で恋に落ちたあの日よりもやっぱり上手くなっていた。いつも聞いているからか、ギターの伴奏も脳内で自然に再現されてくる。

『パスタ作ってくれたんだ』
「うん。好きだったでしょ?」
「頑張ったの。わたし料理嫌いだけど、今日は特別だから。」
『そっか。』

彼が薬指に嵌めた指輪をすりすりと撫でる。すぐ目の前のダイニングテーブルに2皿のパスタを置いた。椅子に座ると、彼がにこにこと私を見る。

「どうしたの?」
『いや、また嬉しくなって』
『このパスタ食べ終わったらすぐに役所行くってことでいいよね』
「うん。それで大丈夫。」
『気になるんだけどさ、後悔とかある?』
「まあ⋯ちょっとはあるよ。自分の苗字が無くなるわけなんだし」
「でも嬉しい方が大きいかな。緊張もちょっと。」
『そっか』

彼はきっと今日一日はずっと同じような笑顔だ。今日もたぶん、将来思い出すことになる大事な一日になるんだろうし、私が思い出す時にはたぶん目の前の笑顔もセットで思い出すんだろう。




私の名前は今日変わる。
私は今日、彼と入籍して家族になる。
指輪が頭上のライトに照らされて、銀色にきらきらと光った。

7/20/2024, 11:30:06 AM