富、名声、権力、この世のすべてを手に入れた男。
とどのつまりそれは俺という人間を指す言葉。
誰もが俺を欲し、誰もが俺を崇拝し、またある者は俺を強く憎んでいる、らしい。
忙しい時は忙しく、暇な時は退屈するほどに暇を持て余す。今は後者で、冷たい大理石の床に寝そべりながら適当にそんな事を考えていた。ぼーっとしたせいでうつろになってきた意識に強く突き刺すように、突然大きな電話の音が聞こえた。
急いで立ち上がりリビングの方まで歩いていく。
なるべく電話を逃さないよう固定電話を使っているのは一種のこだわりだ。
「はい。もしもし」
『もしもし。今平気?』
「あー⋯はい。」
記憶力には自信がある。それは聞いたことの無い声だった。
男でもなく、女でもなく、というかどちらにも取れる声をしているのはきっとその声が幼くあどけない高い声だったから。
『あなたはどこまで平気?』
「平気、とは?」
『だから、どんくらい平気なの。今日一日?明日?ずっと暇?』
「え、いや」
『早く答えてよ。』
「⋯⋯」
『ねえ』
「じゃあ暇、というと今日と明日は休みですかね。あ、明後日もです」
『つまり3日間は暇ってこと?』
「そうですね」
『ふーん結構短いんだね。まあいいや、ありがと。』
突然ガチャリと電話が切れた。“ あなたは一体誰なんですか。”と俺が質問する前に突然。プープーと電話が切れた後の空虚な音だけが疑問だらけの俺の頭の中にいやに大きく響いた。
よくよく考えてみると怖いことだらけだったが、その時は疑問の方が大きかった。なぜ俺の電話番号を知っていたのか。そいつは誰なのか。幼いだろうに不思議と俺を圧倒させたそいつは誰なのか、と。
リビングに座り込んでいると、急にコンコンと音がした。
それは窓の方からだった。
窓の前まで歩くとそこに人はいなかった。
だが、窓からコンコンとノックをする音がした。
『こんにちは。いい家だね。』
さっき聞いたあの声が、確かに窓の外から聞こえた。 背中に冷ややかな脂汗が伝う。
「あなたは誰ですか?」
『やだ。内緒。』
「もしかして、僕の家に入ろうとしているんですか?」
『うん。すっごい癒されるよ』
さて、どうするか。状況の割に俺の頭は冷静だった。なぜか姿が見えず、声だけは聞こえる窓の前のそいつを一体どうしてやろうか。女か男、いやそんな法則も通じるのかすら分からない。
「質問したいのですが、あなたが僕の家に入ることで何かしらの害はありますか?」
『無いよ。』
『⋯まあ、そう言うしかないじゃんね。害があったら入れないんだろ?』
「内容にもよります。」
『確かに大きな害が無いのは事実だ。迷惑度で言えば、たまたま家の中に入りこんでしまったオスの小虫程度だよ。オスだから家の中で繁殖もしないし、一匹で迷い込みまた一匹のまま家から逃げ出すだけ。例えるとすればそれだね。ほんとうにその程度でしか無いよ。』
「はあ⋯」
『どう?1回窓を開けるだけ。必要な局面で必要な判断をするだけ。君は得意でしょ。今まで勇気ある判断をしてきたからこそ、現に君は今こんな良い家に住んでるわけだし。』
しばらく考えた。
窓の前の謎の人間(人間なのかすらも分からないが)も同じようにうーんと唸っていた。ふざけている奴だ。
「⋯1回だけですよ。」
『うそ!いいの?!』
「1回だけです。」
ガラガラと扉を開ける。
扉を開けたとしても結局人のようなものは実体あるものは入ってこなかったが、それでも誰かが横を通り過ぎた時のような空気は流れた。
ちょんちょんと足首にふわふわな感触がした。
後ろを振り向くと、三毛猫が嬉しそうににゃあと鳴いた。
「猫だったんだ。」
『ありがとう。君の事大好きになっちゃったよ。』
声の主を探しても、やはりかなり下から声が聞こえた。信じがたいがそのあどけない声は猫の口から出ていたものだった。
『大切にするね。それじゃ、おやすみ。』
──⋯
長い夢を見たような感覚がした。
ぱちりと目を開けると、いつもの天井があった。俺は電話がかかる前にいた部屋の中、大理石に寝転んでいた。シーリングファンがくるくると回っている。なんだか部屋がいつもよりも大きく感じた。
夢を見ていたようだ。
不思議な夢だった。あんなに変てこで子供が見るようなめちゃくちゃな夢を見るのは久しぶりだ。
起き上がると、なぜか四つん這いをして歩いてるかのように視界がいつもより低い。
扉が開いた。視界が低く、靴下しか見えない。
誰だこの人間は。声を上げようとしたら、どこからが猫の鳴き声が聞こえた。その人間はそろそろと歩き、俺の目の前にしゃがみこんだ。
首を上げると、そこにいる人間は、俺だった。自信に溢れた顔つきで精悍な顔立ちは今俺を見てにやにや微笑んでいる。突然手が伸びた。ぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。
『嘘は言ってないよ。大切にするからさ。君は自由に休んでなよ。』
“ふざけるな。というか、なんでお前が俺の形をしているんだ。”
「にゃあ」
口にしようとしたその言葉が、いつまでも音を帯びない。その代わり甲高い猫の鳴き声が俺の口から出た。
『猫ってかわいいなあ。』
『じゃあありがとう。暇な3日間、借りるね!』
目尻を下げて目の前の男、元俺は俺を見てにっこり微笑んだ。
「にゃあ」
俺は騙されたようだ。この鬼畜猫に。
─今欲しいもの、それは俺という人間。
7/21/2024, 2:52:28 PM