理性

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#だんだん理性が溶けていく話

■冷静さを捨てられない人の場合


〈理性が溶け始める少し前〉

雨が降り続く夜、濡れた交差点にヘッドライトが反射し
光が路面を揺れていた。

彼は歩行者用信号が青に変わるのを確認し
傘を少し傾けながら歩き出した。

その瞬間、交差点に1台の車がスピードを緩める気配もなく突っ込んでくる。
突如、「ガンッ!」という音が響き渡り
何かが車のボンネットにぶつかった。

車は急ブレーキをかけて
彼の数センチ手前で前のめりに静止した。

辺りが静まり返り、雨音だけが一瞬その場を包み込んだ。

通行人たちはその光景を目撃し
「嘘でしょ!」「何今の!?」と驚きの声を上げる。
近くにいた女性は手に持っていたコーヒーを落とし
子供は手に握ったキャンディを口に入れることも
忘れて固まっていた。

車のボンネットには
減り込むようにトートバッグが張り付き
傍らには誰かが放り出した女性用の傘が
開かれたまま転がっていた。

彼はその光景を呆然と眺め
何が起きたのか理解できないまま立ち尽くしていた。
その肩に触れる冷たい手の感触だけがリアルで
彼はその手を辿るように振り返った。

そこには1人の女性がいた。
彼女は周りの状況には一切目もくれず
ただ彼の顔をじっと見つめていた。
彼女の顔は冷静だったが
安心したようにその緊張が少しだけ緩んだように見えた。

彼は混乱したまま
「…いったい何が?」と言葉を絞り出す。

彼女は静かに髪を整えながら
「危なかったですね」とだけ答えた。
その声は穏やかでありながらも
何か確信を持った響きが感じられた。

困惑する彼の横で
彼女は車からトートバッグを引き剥がし
落ちている傘を拾い上げると
壊れていないか確かめるように観察し始めた。

彼は答えを見つけられないまま
ふと視線を上げると
彼女の姿はもうどこにも見えなかった。

彼女は路地裏で足を止めそっと息を吐く。
彼女の胸の奥では、彼が無事だった安堵と
微かに膨らむ思いが交差していた。

本編へ続く

3/22/2025, 10:56:01 AM