051【形の無いもの】2022.09.25
師匠が香の煙にむかってなにか低く唱えると、煙はゆうるりとたなびき、うずを巻き、香炉の形になった。
まさしく、いましもこの燻煙がたちのぼっている香炉と、全くおなじ形に。
「わかりますか。《形なきもの》は、このように操ります」
私は、その《形なきもの》が形をなした香炉を両手で持ち上げてみた。ずっしりと、重みが両手に伝わってきた。
「水は方円の器に従う、といいます。それと同様に《形なきもの》も、我らが念じた形に従い、形をなします」
と、師匠がまたなにか唱えた。するとどうだろう。さっきまで精巧な細工の香炉だったものが、きゅうに、子どもの落書きのような不細工な形に変わった。
「!?」
あまりの不細工さに、かえって私は目を奪われ、じっと顔を近づけて凝視してしまった。
「もしかして、あえて、下手くそな図画を、念じられたのですか」
「そうですよ」
師匠はにっこりしながら、こんどは香炉を壁の掛け軸と同じ形に変じた。私の手の中で突然のびひろがってひらひらしだしたそれを、私はあわてて受けとめなおした。
「これは、……辛天頌の掛け軸……」
落款を確かめて、私は絶句した。辛天頌は我が国最高峰の画家だ。それを、師匠は……。
「筆で形を写し取れるものは、すべて、《形なきもの》に模倣させることができます。春華、あなたにもできます」
そして、師匠は硯を取り寄せ、みてごらんなさい、とでもいうようにさらさらと、絵を描きはじめた。
「我が国は、書画を能くすることを国是とし、文化により国を建てることをうたっていますが、それは表向きのたてまえです」
くだんの辛天頌と瓜二つの牡丹図が師匠の筆の下であっという間に写し取られていく。
「本来の目的は、卓抜した写生能力を持つ者を育成し、その者に《形なきもの》を操らせることにあります」
ひとつ目の牡丹が描きあがった。辛天頌の真骨頂とされる生気、画中に生けるが如き、と評される生気までもが写し取られた、それはそれは見事な牡丹であった。
「あなたが画試及第を目指して描画の鍛錬をし実際に五次にわたる試験を突破した目的は、画家として立身出世し、一族に安泰をもたらせること、だったはずです。だけど、それはあなたの目的」
師匠は二つ目の牡丹を描きさしたまま筆を止めた。
「国家は画家を必要としていません。必要なのは、《形なきもの》に満足な形を与えられる術者です」
私は、その牡丹の続きを描き足すよう指示され筆を運んだが、できなかった。形はたしかに、版木を刷ったようにそっくりそのまま描き写すことができたが、筆勢まで真似ることは、到底不可能であった。本物の牡丹を剣ですぱっと断ったものに、くたびれた造花を継ぎ足したような、不格好な花の絵が、そこにはあった。
9/25/2022, 1:13:16 AM